今泉博

 09:23

前に打ち合ったのはたしか先週の半ばだったはずだと思い当たり、進藤典範(しんどう のりひろ)の背中に冷たいものが走った。その時にもとてもかなう気がしなかった巨人は、今はもうなんだか別のひどく遠いものになってしまったような気がする。訓練用の木剣…

今日から迷宮街内部限定で日記の一般公開だ。とりあえずは部隊の仲間たちにパスを教えて見てもらっている。みんなにやにやしたり奇声をあげながら読んでいた。まあ、読み返してみると密度濃く行動した相手は翠以外にはいないし、彼らには懐かしい日々を再確…

 23:31

帳簿とレジのお金があわない。熊谷繁美(くまがい しげみ)が必死に記憶をたどっていたものの、妻の声にそれを中断された。ちょっと来てー! ネズミが出たときのようなその声に驚いて居間のふすまを開けた。そこには両親と去年入籍した妻の桂(旧姓は小林)…

ユッコにアキ、元気ですか? お久しぶりの姫です。 なんか心配かけちゃったみたいだね。兄貴が来たときにはびっくりしたよ。 連絡しなかったのはごめんなさい。ちょっといろいろあって、気持ちの整理がつきませんでした。 今も・・・まあカラ元気も元気って…

 10:08

昨日からお店はお休みで、早起きの必要はなくなった。それは嬉しい。でも憂鬱な仕事だわ、と鶴田典子(つるた のりこ)は倉庫のスイッチを手探りで探しながら考えた。迷宮街の道具屋は商売をする上で非常に大きなメリットを享受していた。最大のものは競合す…

今年も残すところあと三日。日記をつけ始めたのが11月1日だったから、もう二ヶ月も続いたことになる。最初の頃にあった「明日死ぬかもしれない」という切迫感はいまはもうない。別に死なないと思っているのでもなく、死んだら死んだで仕方のないことだと受け…

 14:44

それではよろしくお願いします、と頭を下げると妹――鈴木秀美(すずき ひでみ)と同居している落合香奈(おちあい かな)という女性は心細げにうなずいた。あと一日でも一緒にいてあげたら、いいえ、お正月くらい実家に連れて帰ったら。妹の世話を億劫に感じ…

街全体が静かな一日だった。午後から今年の初雪が降り始めたから、というのもあるだろうけど小林さんの送別会(さすがに道具屋に勤めていただけのことはあって、送別会に出くわした人たちがみんな立ち寄っては彼女と乾杯していた)が昨日大変な騒ぎだったか…

酒場では道具屋のアルバイトの小林桂(こばやし かつら)さんの送別会が行われている。最初の予定では昨日が探索者ではない友達とのもので今回が探索者達とのものという話だったが、見る限りそんな区別なく皆で小林さんの門出を祝っていた。中では真城さんが…

 13:40

自分の女運は最悪だったな、と今泉博(いまいずみ ひろし)は昔を思い出していた。思い出は女性の顔をしていた。それらは一つではなく表情もさまざまだったが、すべてに共通するものがあった。自分を見つめるときの、隠そうともしない侮蔑の色がそれだ。 県…

 12:31

ドアを乱暴に開け、全員そろってる? と叫んだ。鍛え上げられた動体視力は返事よりも前にすべての人間の顔を勘定し、床に積み上げられたロープと金具も確認していた。葵ちゃんは? と笠置町翠(かさぎまち みどり)に双子の妹の所在を確認した。デートです、…

 11:05

こんなものかな! と両手を一つ打ち、小林桂(こばやし かつら)は晴れ晴れとした思いで段ボールの山を眺めた。バッグに詰める生活用品、布団を除いたほとんどがそこには収められていた。この街のアパートは家具類がすべて据付になっていたから、引っ越すと…

 09:32

…・…保持したはずの岩が根元から外れた。バランスを取り戻そうと伸ばした腕が、逆に距離感を失って壁面を押してしまう。自分は落下するのだ、と西野太一(にしの たいち)は落ち着いて考えた。墜落の浮遊感は何度経験してもいい気分のものじゃない。自分の身…

 9:12

「お宝とりまーす!」 いつもはつまらなそうにしている娘の元気な声に、恩田信吾(おんだ しんご)は何かいいことがあったのだろうと嬉しく思った。罠解除師の鈴木秀美(すずき ひでみ)は見かけにも年齢にもよらず豪胆な娘で、それは仲間として頼もしいこと…

 10:06

どんよりと曇る空。身を切る寒さこそないものの、吐く息はすっかり白かった。湿った風が絶え間なく吹き付けてくるこんな日にはさすがに部屋で暖かくしているだろう、となかば予想していたので、セーターの上に外套を巻きつけてイーゼルの前に腰掛けている姿…

天気は良く、めぐり合わせが悪い一日。 訓練場で青柳さんをドライブに誘ったら、午後からお経を上げにいくとか。お坊さんの世界でも常連客がいて、名指しで指名されると断れないのだそうだ。翠でも来ないかなとぼんやり待っていると、姉妹でおめかしで出かけ…

ついに芸能界デビュー!(by笠置町葵)だそうだ。 午前中に軽く身体を動かしてモルグに戻ったら告知の張り紙が出ていた。本日一八時までに以下のものは事業団の事務所に出頭と書いてあった。こういった通知はたまにあって、大体が喧嘩したので叱られるとか落…

 11:13

迷宮街のはずれに誰かが作ったベンチを見つけた。立ち枯れていたクヌギをそのまま組んだのだろうか、風雨と陽光によって磨かれたそれはとてもいい雰囲気をかもし出していた。とはいえ当初はそのベンチをスケッチのための椅子として使おうと考えていたのだが…

 16:35

彼を目の前にして逃げ出した弱さを憎んだから、二日後、彼の仲間たちが武器防具の修繕を頼みにきたとき、小林桂(こばやし かつら)はこちらから声をかけた。西野太一(にしの たいち)――あの晩紹介された年長の男――は複雑な表情を見せて言った。「なんだか…

ユッコにアキ、お元気? 姫はそんなに元気じゃないでござるよ(考証しろよ)。今日、他の探索者の人たちとお酒飲んでたら、なんか道具屋の女の人が雰囲気ぶち壊してくれました。前から気に入らなかったのよねー、あのおばちゃん。 なんか、今泉くんのもと担…

 19:12

乾杯をした時点では確かに二人だった。しかし一五分後には差し向かいのテーブルから円テーブルに移り、五人が腰掛けていた。 神田絵美(かんだ えみ)が製造に携わったログハウス風犬小屋も本日無事完成し、手伝い半分話し相手半分で見物していた小林桂(こ…

ユッコにアキ、お元気ですか。姫です。なんかね、同じグループの今泉くんには姫って呼ばれてます。気品があるからかしら(わがままだからだよ/気づけよ)? 今泉くんはちょっと女装させたくない(負けたら落ち込みそう/というか負ける/今でも負けてる)く…

 16:30

「片岡さん、どうしたんですかその顔」 お先に失礼します、と声を残して裏口を抜けた小林桂(こばやし かつら)は、商品を納入にきた鍛冶師の顔を見て驚きの声を上げた。先週見たときは健康的に日に焼けていた30代なかばの男の顔は紫色に変色して、右半分が…

 20:13

探索者と仲良くするといいことがないと、織田彩(おりた あや)は過去の体験で知っている。人間はいつか死ぬもので、死んだらそれまでの付き合いの分だけ悲しくなってしまうもので、そして探索者は恐ろしく死亡率の高い職業だったからそれも当然のことだった…

ユッコさんアキさん元気でしょうか。君たちのアイドル(バラドル?)秀美さんです。メールありがとう。お二人に先立って私は大人になってしまいました。お酒飲んで一人暮らし始めちゃったらもう大人よね。アパートも決まったし、スーパーの値引きシールのタ…

 15:20

ここ三日の晴天で蓄えられた地熱が陽炎となってたちのぼるかのようだった。北酒場に併設されているオープンカフェは、そのお陰で一一月の下旬とは思えない快適さを与えてくれていた。目の前にはホットココアと苺のミルフィーユ。織田彩(おりた あや)は幸せ…