第二層で地図ができている個所をすべて歩き終わった。曲がりくねった洞窟だから正確な大きさはわからないけど、歩いている時間だけで五時間はあったと思う。体感的に時速四キロくらいの速度で進んでいるから、ゴツゴツした洞窟内を警戒しながら二〇キロは歩いていることになる。ちなみに二〇キロというのは新宿から府中の競馬場くらいの直線距離になる。大変なものだとわかってもらえるだろうか。それでも明らかに疲労が軽減されているのは体力と気力が底上げされているからだろう。最近では朝八時に地下に潜り、地上に出てくるのが一五時ごろになっていた。確かに第二層でもこんな調子では第四層から先へのアタックができないという事情がよくわかった。第一期の探索者で現在第四層に達しているのは四部隊(そのうちのひとつは真城さんのところだ)あるが、そこから先のアタックをするためには地下で最低六時間の睡眠をはさまなければならない。警戒しつつの浅い眠りでは疲労が回復するわけもなく、テントや食料などを持ち込んだら行動力が下がるということで地下での睡眠は現実的ではない。ゆえにそこから先へ進めないのだった。
来るべき第三層へのアタックを見込んで現在はしきりに情報収集をしている。熱心なのは児島さんと常盤くんのコンビだ。お金が必要だが死ぬわけにもいかない彼らは自分たちにとってのリターンとリスクの最高のバランスを探している。もともと第二層で俺たちと別れる予定だったがそれも不明になってきた。色々と暇を見つけては代打をしていてわかったらしいが、仲間として俺たち以上の部隊は(少なくとも頻繁に代打を必要とするような部隊では)ないらしい。俺たちだって彼らと組んでいたいから、もうしばらく第二層で経験をつみ、絶対安全になってから第三層に挑むのがいいのでは、とみんなでの話し合いでは決まりつつあった。問題は絶対安全の判断基準だ。
第二層と第三層の違いは何か、と第一期の探索者たちに訊くと返ってくるのは「スピード」という答えだった。第二層最速の化け物は通称をいなばという白いウサギの化け物だったけれど、第三層での標準の速度はそれに近い水準になるという。いなばは生き物の外観をしているものの実際はエーテルが凝縮されてできた存在らしく、筋肉の動きなどで先を読むことはできない。純粋な反射神経だけで対応しなければならない難敵だった。うちの部隊では俺と翠は対応できているが青柳さんはたまに悲鳴をあげていた。それが標準になるのだから困難が思いやられる。そして、スピードというのはそれだけの問題ではないらしかった。話によれば第三層は、怪物たちがねぐらにするような物陰や横穴が非常にたくさんあるらしく、その大部分は掘削して通行可能になっているものの目を離すとすぐにその暗闇に潜むものが出る。第二層などと比べてはるかに近くに怪物が潜むことになるために戦闘また戦闘というテンポになってしまうという。よほど慎重にしないとこれまでの好調も続かないとは容易に想像できた。第一期の探索者でも第三層に降りずに第二層でやめておく部隊が半分以上いるのだった。それだけの違いがあるということか、と唸ったら黒田聡(くろだ さとし)さんが「まあ、度胸の問題もあるからな」と吐き捨てるようにつぶやいた。
地上に出てモルグに戻ったら週末探索者の国村光(くにむら ひかる)さんが来ていた。先週約束して身体の使い方を教えてもらう予定になっていたのでそのまま訓練場に出かけた。
予想に反して国村さんの講義はホワイトボードの前で行われた。なんだ? という顔をして教官の橋本辰(はしもと たつ)さんも顔をのぞかせる。さらさらと国村さんがホワイトボードに描いたのは人間の胴体の図だった。黒いペンで肋骨、背骨、骨盤を器用に描き、そして「これが腹直筋」とつぶやいて筋肉の線を赤いペンで描いた。普通の筋肉の図とは違って、どの骨とどの骨をつないでいるのかを強調している。
筋肉は、骨と骨とをつないでいるゴムにすぎない。そう国村さんは言った。だから、原則としてつないでいる二極を直線でつなぐ動きしかできないし、それが一番大きな力を発揮できる、と。そして滑らかな動きで俺のあばらに手を触れた。ここが腹直筋の基点で、ここが終点になる。言いながらすっと指を下ろした。今のラインにそって身体を動かすのが一番早く強い動きになるわけだ、と。
言われてみればシンプルなことだったが、実際に指示どおりに意識して動こうとすると難しい。国村さんの目には俺がどの筋肉を使っているかわかるらしく、綺麗な動作を阻害するような筋肉を利用すると「違う!」と声が飛んできた。ゆっくりした運動しかしなかったけど全身がだるい。筋肉痛になりそうだ。
まあ難しいけどなと苦笑して今日の訓練を切り上げた。コツは教えた、あとは人体図鑑を見ながら自分でやるようにという後姿に頭を下げた。尊敬の念が自然にそうさせたのだ。だってあの人、俺が全身で押した腕を、片腕だけで簡単に押し戻したのだから。全身で押している俺をころりとすかして転がして、効率よく力を使えばこれくらいのことはできると笑って見せた。奥が深いな。
木賃宿の前の庭にでっかい犬小屋を発見。ここは神田さんという人の大工スペースだからあの人が作ったんだろうな。見たところ大型犬用だった。木賃宿で犬でも飼うのかな? だったらうれしいけど。