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「うわー!」
黒い毛並みがびくりと震えた。その犬は怯えたように目の前の女性を見上げる。見知らぬ来客に精一杯振っていた尾が、ぱた、ぱた、と控えめな動きになっている。うるさいよ雪、怖がらすな! と神田絵美(かんだ えみ)は部隊のリーダーである女戦士をたしなめた。
迷宮街の南西部、アパートに隣接するここは事業団の職員に対して貸与されている社宅が集まっている。探索者や一般労働者とは違い一戸建てで、内部での役職に応じて家は立派になり庭ももてた。この家と庭を借りている人間は徳永幹夫(とくなが みきお)で、事務方の全般を監督する立場にいる。よって庭もそれなりの、大型犬を飼う程度の広さはあった。
「うーわー、かーわーいーいー!」
まるで子供のように黒犬に抱きついた。ニューファンドランドという種類のその犬は、つややかでふさふさした黒い毛で40センチはある身体を包んでいた。目の前にいる人間に加えられるのは危害ではなく愛情だけだと得心がいったらしい。長い舌でその顔をしきりに舐めていた。
「本当にありがとうございました、神田さん。セリムもとっても気に入ってます」
この家の主である徳永夫人が微笑みかけた。目の前で全身で愛情を表現している犬のための犬小屋を作ったのが彼女だった。納品は数日前に済んでいたが、昨日から犬がやってきたというので仲間の真城雪、製作を手伝ってくれた道具屋のアルバイトの小林桂(こばやし かつら)を連れて挨拶に来たのだった。
「ニスの匂い、嫌がってませんか?」
徳永夫人に気になっていたところを訊く。なるべく匂いが気にならないように、内部には匂いの薄いものを、外部にはまず基本的な防水をエポキシでおこなってから最小限の汚れ予防として薄くニスを塗った。小林の顔を中に突っ込ませて匂いを嗅がせてみたが「わからない」というくらい、人間が住むのだったら問題はない程度なのだが犬の嗅覚にはどうかと心配だったのだ。
「特に気にしていないみたいですけど。喜んでましたよ」
よかった。そして芝生の上で人間と取っ組み合いをしている巨大な犬をしげしげと眺めた。
ニューファンドランドって初めて見たんですけど、寒さには強いんですよね」
「ええ。そのかわり夏の暑さにはちょっと。京都は盆地ですから、来年がすこし心配なんです」
それを聞き、神田は歩き出した。小林もついてくるが視線は元気良く真城雪と戦っているセリムの方にちらちらと流れていた。うらやましそうに、順番待ちをする子供のように。
今でこそ40センチくらいだったが(実際はそれでも十分大きいのだが)長じたら80センチ以上になる犬の住まいということで、それはとても巨大なログハウスだった。一面の壁には片開きの大きな扉、しっかりとしたカギもついている。残りの三方には窓枠があり、窓板は両開きで開くようになっていた。フックの留め金で外側から施錠もできる。
「ここをあけて空気を通してあげてください。窓枠の上にはレーンをつけてますから百円ショップでスダレを買ってきて垂らしてあげることもできます」
まあ、と驚いた顔。神田は少々得意げな顔をして、今度は天井についた金属管の口を指差した。
「もっと暑そうだったらここから水をぎりぎりまで入れてあげてください。水は床下のタンクにためられて、床下の日陰を通る風に冷やされます。管の上にある空気が熱くなって膨張し、サイフォンの原理で中にゆっくりと水流ができます。パイプは四隅を通ってますから、日なたに置いても中は涼しくなりますよ。土台のここは外せるので、夜になったらタンクを取り出してください。中の水は顔を洗えるくらいにあったかいお湯になると思います。管からタンク一杯の水を入れるのはきっと面倒ですから、タンクにまず水を入れて床下にセットしてから、屋根からは管の分だけの水でもいいでしょうね」
「まあ…・…すごいわねえ。本当にありがとうございます」
夫人は感心しきりといった様子で深く頭をさげた。楽しかったし、喜んでもらえてうれしいと笑顔を返す。
相変わらず黒犬と遊んでいる大きな子供を置いて三人は家の中に招じ入れられた。徳永夫人がお茶を淹れに立ち去ると桂はため息をついた。
「あーあ、真城さんと来たのは失敗だったわ」
憮然とした声。しかしあくまで楽しげなその様子が神田には嬉しい。最近まで疎遠だった昔の親友とこうやって出かけられることも、彼女がなにかふっきったように明るくなったことも。
「神田さん」
「うん?」
「私も犬を飼いたいんですよね。私にも作ってもらえませんか?」
「別にいいけど、アパートじゃどうせ小型犬でしょ? 買っても安いんじゃない?」
いいえ、と首を振ってにっこり微笑む。
「私、二十日でお店を辞めることにしたんです。この街を離れようかと」
すぐには何を言っているのか理解できなかった。しかし、その言葉と笑顔とがじわじわと教えてくれた。それは喜ぶべき門出なのだと。思わずそのほっそりした両手を握った
「熊谷くんのところ?」
照れくさそうに肩をすくめる。しっかりとうなずいた。
「ほんとに! そっか…・…」
しみじみとうなずく。
「そっか、じゃあ世界最高の犬小屋を作ろう。五階建てくらいで、オートロックとか」
いえ、あれでもう十分ですと慌てたように言った。顔を見合わせて笑った。