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お目当ての若いバーテンは東京に行っているという。少し残念に思いながら、強めのスコッチをダブルで頼んだ。もともと団体で騒ぐことが性に合わない津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は、最近はもっぱらバーカウンターで一人で飲むことを好んでいた。
「お晩です、津差さん」
ぎ、と音をさせて若い娘が隣りに座った。理事の娘でこの街でも屈指の魔女の一人、笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。なんとなく上機嫌そうだ。
「こんばんは」
あたしも同じのください! と初老のバーテンに頼む。ずっと前にこの娘に酔いつぶれられたことがあったな、と思い出し少々不安になった。まあ、いざとなったら双子の姉を呼べばいいのだが。
「ご機嫌だね。何かいいことでも?」
できの悪い姉を持つと苦労しますよ、としみじみと言った。そういえば彼女は? と問うと真壁啓一(まかべ けいいち)とデートだという。パンダを見に神戸まで行ったそうだ。
「このところちょっと落ち込んでたんですけど、家族じゃ迂闊に踏み込めない問題だったんですよね。真壁さんに任せられてよかったな。あの人ならちゃんと彼女いるし、間違いも起きないでしょ」
事情を訊く前からの説明的な言葉は、それが彼女にとって大きな心痛の種だったことを示していた。津差はあいまいに笑った。
「それにしても、ほんとに恋の祭典って感じですね、この街自体が」
「クリスマスも近いからね」
今日も探索者の神田絵美(かんだ えみ)とアルバイトの小林桂(こばやし かつら)が二人して道具屋を白と緑と赤に飾りつけしていたような気がする。京都の中心部に行けばもう路地裏までクリスマス一色なのだろう。
もちろんクリスマスの魔法だけではない。この街では喜怒哀楽が外よりあからさまだと津差は感じていた。当時は過酷だと思えた体力テストは、今にして思えば健康な大人ならば誰でもできる程度のものだったとわかる。そのうえで当落を分けるのはひとえに覚悟の量だったのではないだろうか。そうして覚悟を試された、言うならば精神的に強靭な探索者たちが、すぐ隣りに死を感じながら日々を過ごすのがこの街だった。
死が近くにあり明日も自分が生きている保証がないからこそ、探索者には自分の欲求を肯定して簡単に主張する傾向がある。好悪、美醜、善悪、所有欲――あらゆる行動の典範がごく薄のオブラートに包まれて(しばしばオブラートは品切れだった)表出されるのが迷宮街という場所だった。この娘が恋の祭典と名づけた現状も、それを考えれば何らの不思議もないものだろう。誰だって他人に好意を抱くし、正常な大人ならそれは性欲を伴う。
でも、と考える。自分たちのように明日がないかもしれないと痛感している人間ならオブラートを捨てることも抵抗がないだろうが、この双子はまだ自分たちのようにエゴを肯定しきれないのではないかと。であるなら色々な意味で不利になるのだった。どんな論議だって積極的で声の大きいものが勝つものだから。死を隣りに感じていないというのは――生き残る可能性が高いということだから――喜ばしいことだけれど、周囲の華やかな世界に今ひとつ声を上げられない若者を見ると少々気の毒にも思えてくるのだった。
「ああ、いいなあ」
うらやましそうにつぶやく横顔はどこにでもいる夢見がちな二一才のものだ。眺めながら、津差はおかしいやら心配になるやら複雑な気分だった。これは兄の心境だろうか? と新しいスコッチのグラスを目の高さに掲げた。琥珀色のグラスに映るのは若い男だった。テーブルスペースの一角から彼女の部隊の罠解除師がちらちらと視線を送ってきている。彼は彼で、自分の欲求をあからさまに肯定できない経済的な理由があった。だから見つめるだけしかできないのだろう。そんな控えめな思いを、恋の祭典にあこがれる娘はまったく気づいていなかった。津差は苦笑してグラスをあおった。隣りで不思議そうな顔をする。