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どんよりと曇る空。身を切る寒さこそないものの、吐く息はすっかり白かった。湿った風が絶え間なく吹き付けてくるこんな日にはさすがに部屋で暖かくしているだろう、となかば予想していたので、セーターの上に外套を巻きつけてイーゼルの前に腰掛けている姿に感心してしまった。その目は寒さなど感じていないように大通り向かいの並木とキャンバスのあいだを行き来している。冬の灰色の空を描いていてもなお明るいその色調はこの少年の健全さをあらわしているようで、小林桂(こばやし かつら)の心を暖かいもので満たした。この子はおそらくユトリロにはなれないだろう。でも画で名をあげたのは彼だけではないし、一人の若者としてそれは幸せなことに決まっている。
笑いの波動を感じたのだろうか、今泉博(いまいずみ ひろし)は背後を振り返った。恩師の姿を見つけてほころぶ白い顔はテレビの中のアイドルにも引けを取らず整い、彼らよりもずっと品があった。それはまあ、師としての贔屓目かもしれなかったが。これはもてるわけだわ、と今更ながら納得する。おはようございます、と元気のいい声に微笑を返すと彼はまた画布に目を戻した。しばらくして「明後日でしたっけ?」と背中が問いを発する。小林がこの街を去る日だった。ええ、と返事を返すと送別会に参加できないことを詫びられた。大検と美大、双方の予備校に通うこの少年は週の大半、夜をこの街の外で過ごしている。
「勉強は大事よ。それに集まるのはほとんど第一期の人たちだから、今泉君にはつまらないでしょ」
自分が積極的に探索者と関わったのはほんの最初の時期に過ぎない。その頃親しくしていた人間たちの大半は街を去り、少なくない数の人間は永い眠りについていた。
「どういう人なんですか?」
興味津々といった声。はっとする美貌にしては浮いた話を聞かなかったが、18歳ならば恋愛に対する興味や好奇心はあるのだろう。そうね、と桂は話しだした。彼女にしても話の糸口として悪いものじゃなかったから。
熊谷繁実(くまがや しげみ)は第一期の初日に探索者登録した戦士だった。家業を継ぐのが億劫で逃げてきたんだと、からりとした笑顔で言ってのける彼には弱さや甘え、疲労といったものをやさしく肯定する鷹揚さが感じられた。桂が抱えていた心の重石――目の前の少年に望まぬ進路を強制し、人生をゆがめた裏切り――をおそるおそる打ち明けたら、その時はほかにやりようがなかったんだろう? とこともなげに言い放った。
本心では責めてほしかったのだろう。非難されることで心の痛みを感じて、それをもって免罪符としたかったのだ。しかし熊谷はそれをせず、ただ自分が失敗したことだけ覚えておけばいいんだと言った。一人傷つけたことだけを忘れないでいれば、次に誰かに会ったとき少しはマシになる。大事なのは、悔いただけで終わりにしてしまわないことだ。
相談しているうちに、頼りに思う気持ちが、当初は尊敬と友情でできていたものがほかの成分になったのは自然な心の動きだった。熊谷も探索者だった恋人との価値観の違いに悩んでいた。まず既成事実が作られ、熊谷は当時の恋人との関係に結論をつけようと決心した。その恋人も親しくしていたグループの一員であり、桂と熊谷の関係はその交友関係をを危うくすることをわかってはいたが、自分の感情を素直に認める強さを身につけつつあった。
そしてその恋人は死んだ。第三層で怪物に不意をうたれ、頭から高温の硫化水素ガスを浴びたのだそうだ。熊谷が別れ話を切り出した前なのか、後なのか、それは問題ではない。敏い女のこと、相当程度に感づいていたことは想像に難くなかった。桂はふたたび裏切った相手を失ったのだった。
二人を失ったその部隊は、さらに二人が迷宮街を去ることをその晩に決めたことで解散となった。そして突如として異動ラッシュが巻き起こった。極めて高い能力の戦士だった越谷健二(こしがや けんじ)と治療術師の湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)を、第三層に到達していた九部隊すべてがスカウトしたのだ(二人がタカ派でもハト派でもなかったことも騒ぎを大きくする一因となった)。加えて彼らの部隊ですら不意をうたれれば壊滅するという事実が、複数の有力な探索者に引退(もしくは第三層からの撤退)を決意させていた。数週間にわたって全般的な部隊の再編成が行われ、死体買取量の激減に担当者が悲鳴をあげた頃、第三層に挑む精鋭部隊は五つになっていた。そしてその中に熊谷繁実の名前はなかった。迷宮街からも去っていた。
「えらそうなことを言う割には度胸がなくて、冷たいことを言う割には実行できない、やさしいだけが取り柄の人よ」
ひどいな、と背中が苦笑する。でも好きなんですね。その言葉にしっかりとうなずいた。その視界の端に一つの人影が映った。いつもなら自分を見かけると走りよってくるその小柄な身体は柄にもない逡巡を見せていた。くすくすと笑う。
「人を好きになるってのは大事なことよ、今泉くん。そして、好きになった相手にはぶつかってみるのも大事なことよ」
両手でそっと頭をはさみ、人影のほうに向ける。自分と同じ物を見てその身体がこわばった。やさしく添えられた両手から逃れようとする動きはその人物の視線を意識してに違いない。
「これが最後の授業かしらね。――愛していること、愛されていることをわかる男になりなさい。素敵な女性には思い切り愛情を注ぎなさい。そうすれば、その愛情の分だけあなたを成長させてくれるから。そして、自分の好きな人たちには限りなくやさしく、それ以外には限りなく冷酷になれる一人前の大人になりなさい。――ほら! イーゼルは私が片付けてモルグに届けておくから!」
振り向いて見上げる瞳は混乱していた。揺れる不安と迷いの色。教師はそれに気づかぬように、生徒の背中を強く叩いた。濁りが消え、年齢にふさわしい希望と挑戦の覇気がきらめくと、彼は立ち上がり小走りに走り出した。こちらを見て立ち尽くすだけだった鈴木秀美(すずき ひでみ)の姿がうろたえたように揺れる。
浮き立つ思いで見送り、その場に取り残された画材たちを眺めた。ずっと離れていたベンジンの香りが懐かしさを呼び覚ます。
「今泉くん! これ借りて絵を描いていい?」
少年は立ち止まった。いい笑顔だった。
「描いた絵をもらえるなら! ありがとうございました先生! お幸せに!」