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過去、71人のベトナム戦争従軍者を取材したことがあったがその際に強く感じたことは彼ら戦争経験者は一様にそのことに関して口が重くなる傾向があるという事実だった。ありもしない戦争経験(それは映画のあらすじに酷似していた)を自分の記憶として吹聴したロナルド=レーガン元大統領のような自己欺瞞でもない限り、他の人間の取材経験からしても人間には従軍体験を秘しておこうという傾向があるようだった。しかし同時に同じ経験をもつ者同士ではそれについて語りたがるという傾向も見られるのも事実だった。そこにはなにがあるのだろうか? 非経験者には畢竟理解されないというあきらめだろうか? 戦争という人類の業について語るには仲間意識を必要とするのだろうか? ともあれ迷宮街を通して現代日本に関する本を書こうと思い立った小川肇(おがわ はじめ)は、そのアプローチ方法を決めるために先人が残した取材メモをくまなく読み込んだ。そしてそこに見つけたのは、従軍者と同じ種類の秘密主義である。迷宮街の探索には、どうも戦争経験と同じような心理的な枷があるらしい……。
そこで小川が選んだアプローチはバーテンになることだった。それは的を射ていたようで、馬鹿正直にフリーライターなどという名刺を差し出しては決して聞かれないだろう生々しい迷宮内部の状況が、それを話す声と表情をおまけにして毎日自分に降り注がれる。アルコールによって大げさになっているにしても、聞き手も同業なだけに虚偽の可能性は低い。取材方法としては上出来だと自負していた。
たまにはこういうこともあるしな、と目の前の男女を眺めた。男は第二期の探索者の中でも優れた戦士である津差龍一郎(つさ りゅういちろう)といい、女は迷宮街の探索者の関係者だという。名前は佐々木明子(ささき あきこ)と紹介を受けていた。年齢は、二十歳になるかならないかだろうか? 詳しい経緯は知らないが、明子の知り合いの探索者の状態について部外者である自分の意見を聞きたいのだそうだ。小川の職場でもある北酒場はまだ昼前の時間ということで人気は少ない。ここ数日の陽気に誘われて京都の街に繰り出しているのかもしれない。
一通りの説明は受けていた。その常盤という探索者がこの街に来た経緯、知人の死、通夜から葬式にかけての態度に明子が抱いた恐れ。この街にやってきたがすげなく追い返され、しかしその事情をあとで聞いた津差が木賃宿に部屋を取った彼女を訪ねて事情を聞いたのだという。津差はそれで判断に困った。
「葬式なんてのは死んだ人間のためじゃなくて生きている人間のためにやるもんです。常盤がその男性の治療費を払っていたのなら、最後まで面倒を見るべきだと思います。でないと周囲が納得できません。受けとった者だけではなくて与えた者も、与えた分だけの責任を負うのが人間社会ってもんじゃないでしょうか」
津差の言葉にうなずいた。
「まあこれは俺がそう考えているってだけで、通夜に出るだけで義理を果たしたと判断する人間がいたところで不思議じゃありません。けれど、つい数ヶ月前までそばにいた女性が、以前はそうじゃなかったと断言する。だとしたらそこには変化が起こったんじゃないかと思うんです」
うなずいて、内ポケットからタバコを取り出した。二人に向けると明子は頭を下げて一本受け取った。火をつけてやる。
「他人の治療費や賠償金を肩代わりする経験は大変なものでしょうから、普通にしてたって変わってしまうかもしれない。でも、それがもしもあいつがこの街に来たことで起きた変化だったら、あいつはここから離れるべきなんじゃないかと思いまして」
煙を呑みながら大作りの顔を眺めた。この街で他人の心の中まで気にかける人間は珍しいな、と思う。
「まず、津差さんが見落とされている点が一つあると思うのですが」
灰皿に灰を落とし込みつつ言葉を選ぶ。
アメリカでは、成人女性の10人に1人はレイプされたことがあるという統計があるのですが」
いぶかしげな表情。続けた。。
「私はあの国で暮らしたことがあります。成人女性の友人も数十人おります。一人としてそのような方はいらっしゃいませんでした」
「――その質問をできた、ということ自体がいないということでしょうね」
その通りだ。いかにも男性不信、いかにも精神に傷を負っているような様子を示していたなら恐ろしくてそんな質問などできるはずがない。質問できたという事実それ自体が彼女らの過去の健全さの目安になった。
「一方で、あるセラピストの中には670の臨床例のうち過去に性的虐待を受けたケースが八割七分にのぼるという報告をしているものもあります」
神妙に言葉を待つ二人。
「私の友人30人ほどいて、一人も過去にレイプされたものがいない一方、あるセラピストの所を生理不順や偏頭痛や腰痛、肥満などで訪れる女性の87%はレイプされているのだそうです。これはいくらなんでも異常な数字といえないでしょうか。さらに甚だしきはそのセラピストの臨床報告ですが、彼の患者たちは催眠による過去逆行やカウンセリングの結果過去の性的虐待の事実を『思い出し』『一度思い出すと鮮明にそれについて語る』ようになるといいます。それではやはり、私の友人たちの一割は過去に性的虐待を受けていて、彼女たちがたとえば肌荒れや便秘に悩んでセラピストの扉をノックしたら、その記憶を『思い出す』のでしょうか? ほとんどの人間が抑圧された忌まわしい記憶を抱えていきているのだと? そう思いますか?」
「それよりは――」タバコを吸って少し度胸が出たのだろうか、明子が口を開いた。
「カウンセリングによってその記憶を作られた可能性のほうが高いと思います」
小川は深くうなずいた。
「人間の記憶は簡単に変えられるし、捏造することもたやすいものです。そして結局のところ、私たちが何かを行うときその指標に従う『こころ』と呼ばれるものは知識の積み重ねでしかありません。知識の積み重ねから選択肢をいくつも作り出し選んでいるだけで。そして本人にもっとも影響を及ぼす知識は体験――と本人が思い込んでいるもの――です。ところがその体験も、専門家のカウンセリングや催眠治療によってたやすくねじまげることができる」
二人の顔を見た。
「二人は何もおっしゃいませんでしたが、私が常盤さんの行動で強い疑問をもつ点が一つあります。――どれだけ親しい友人であっても、学校をやめてまで治療費や賠償金を負担するという決断自体がまともではないと思いませんか?」
津差は虚を突かれた顔をした。明子はその横顔を眺めていた。
「佐々木さんは、常盤さんがそのような決断をなされたのをご覧になって罪悪感をお感じになられたのではありませんか? だから常盤さんの行動が異常なものだという正常な判断ができなかった。けれど、明らかにその判断は常識を逸脱しています。――常盤さんともう一人の児島さんという方、どちらがその判断をされたかご存知ですか?」
「わかりません。わかりませんけど――浩介なんじゃないかと思います。印象ですけど」
「行動だけ伺うと、常盤さんという方は純粋で努力家、正義感が強くまた自分の信念に忠実なところがあるように思えますが、それは原理主義者の特徴でもあります。原理主義的な観念の持ち主は、逆境や変化への柔軟な対応能力に欠けることがありますから、困難に際してはかたくなに自分の信じるものに視線を集中してしまうことが多々あります」
津差の顔を眺めた。
「常盤さんにとって迷宮探索は困難なものでしたか?」
「この街で迷宮探索を簡単にこなしている人間なんていませんよ。それは笠置町姉妹でも同じことです」
うなずき、私の推測ですが、と前置きした。
「常盤さんという方にとってこの一ヶ月は大きなストレスだったのではないでしょうか。返せるともわからない金銭的な負担、日々の死の恐怖、自分の決定を悔やむ気持ち、それを認めたくない自負心……。それらが彼の基盤となる体験、たとえば大学でのあなたとの時間などを小さくよわめ、事故に遭われたご友人、自分自身、この街での人間関係くらいにまで世界を狭めてしまっているのではないかと――所詮想像で、正解などわかりませんけど」
三人はしばらく黙っていた。
「もし」
明子が口を開いた。
「もしそうだとして、私たちは嫌われてもいいとしても、それ以外の人たちに対してまたやさしく、関心をもてるように、そう浩介がなるためにはどうしたらいいと考えますか?」
必死な表情にすまないと思う。自分はすこし本を読んでいるだけの物書きにすぎないのに。
「とりあえずは経過を見守るべきだと思います。金銭という問題がなくなり迷宮探索が彼にとって自由意志でやめられるものになった以上ストレスはかなり軽減されると思いますから。でも理想はやはり精神科医から何らかの薬を処方してもらうことでしょうし、あるいは恋をするのもいいのかもしれません」
理想はどんなタイプの女の子でしょうね? と津差の質問に考えた。
「まずは常盤さんが一緒にいて幸せと感じられるのが大前提で、その上では感情を隠さず表面に出し、陽気で価値観が多様な人が向いていると思います」
津差は過去を思い出すように視線を斜め上にあげた。そしてにんまりと笑った。
「あるいは常盤くん自身も回復したくて無意識に選ぶものなのかも――ひとり心当たりがいます」
「その人は、浩介のことをどう思っているんでしょう?」
津差はじっと明子を見つめた。
「そこが問題だね。じゃあ、これからちょっと誤解を解きにいこうか!」