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朝会の列で最後尾を譲ったことがなかった。小学校に入学した時点で143センチ、中学校入学時には176センチ、中学生活で192センチまで伸び、あとは大学までかけて現在の203センチになりそこで止まった(正直ほっとした)。そんな珍しい人生を過ごしていた津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は二つのことを確信している。殴り合いでは結局体重が重い人間が勝つということ。そして殴り合いがいくら強くても一個の人間としての評価においては何の役にも立たないこと。
目の前に迷宮探索事業団の理事である笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)を見て、後者はすんなりと納得できた。平地が多いアメリカ・中国・オーストラリアといった国の良質安価な農作物と日々戦いつづける農民であり二人の娘を素直で父親を尊敬する女に育て上げた父親である。人間ではどうしたってかなうわけがない。
それでも、と思う。それでも殴り合いならば体重の重い自分が勝つだろうと思っていた。笠置町翠(かさぎまち みどり)の父親だということはわかっているから、武器を持たれてどうにかなるとはもとより思っていない。それでも素手で組み合いになれば自分の筋肉と骨格の前に敵し得ないだろうと、そう思っていた。その予想はたやすく否定されることになる。
身長は真壁啓一(まかべ けいいち)より低く自分よりは30センチは下のはずだ。向かい合ったら彼の視界は自分の腹筋で埋め尽くされているだろう。身長はなくても筋肉質、というものでもない。まるで日舞か何かの師匠ででもあるかのようにその四肢はほっそりしていた。戦士とかいう以前の問題として農民と言われても納得できない細さだった。それでも津差は一目でわかったのだ。たとえ素手でも自分は赤子扱いされるのだろうと。理由がまったくわからずに確信する――それは明らかに、まともな人間のあるべき状態ではない。声をあげたのはそのような気持ち悪さがあったからだろう。
「俺と君と? 腕力で?」
テーブルについてすぐ、まだビールも来ていない時だった。私と理事とどっちが腕力が強いと思いますか、という津差のぶしつけな質問に理事は驚いた顔をした。君のほうが強いに決まっているだろう? 当然のような顔を見て質問を間違えたことを悟る。私と理事とどっちが素手では強いのでしょうか? 言い直した。
そりゃ俺だな。しゃらっとした言葉に頭を下げる。私もそう思います。でもどうしてだかわかりません。
酒を飲みながらする話じゃないんだが、とあごひげを震わせてから視線を津差に置いた。まただ。視線を当てられるたびに『切られた』と思わせられる。この感覚も他の人間、例えば訓練場の橋本辰(はしもと たつ)からですら感じないものだった。ちなみに娘の笠置町翠(かさぎまち みどり)からは、ふとした瞬間に恐怖を感じることがある。――あ、今この娘は俺の壊し方を考えている――そう実感する瞬間がたびたびあった。この街の前衛はただ一人を除いて同じ感覚を味わっているらしい。後衛たちがそれを感じないのは、彼女にとってはどんな状況でも光栄相手であれば自分が勝つという自信があるからだろうと皆で合意していた。ただ一人、真壁だけがそれを感じていないのは、家来を壊そうと思う姫はいないのだから当たり前だ。
「拳銃を使う人間に必要な能力はなんだと思う? 引き金を引いたら一〇〇%弾丸が出ると仮定してだ」
津差は頭の中で映画のシーンを思い浮かべた。思いつくままに狙いをつける能力、動きを予想する能力、ぶれずに引き金を引く能力と列挙してみる。理事はうなずいた。
「一くくりにしてしまうと弾丸を的に当てる技術だな。どうしてそれだけでいいんだ?」
「鉄砲で撃たれたら普通は壊れるからです」
そう、とヒゲの中年はうなずいた。お前さんはどんな相手でも触れたら壊せるというわけじゃない。俺は相手が生き物であればなんだって壊せる。この違いは――そこでビールが運ばれてきた。津差はあたりを見回した。この物騒な会話に興味を示しているのは自分以外に同じく前衛の真壁だけだった。すいませんと頭を下げて、続きはあとにと態度で示す。理事はうなずいてジョッキを持ち上げた。