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「あ、また転んだ」
北酒場には時ならぬ特設リングが出来上がっていた。その中央で行われている見世物を眺めながら落合香奈(おちあい かな)は呟いた。派手な音と一緒に歓声が沸きあがる。いま転んだのは高田まり子(たかだ まりこ)の部隊の前衛で、神足燎三(こうたり りょうぞう)という30代前半の戦士だった。第一期の初日に試験をパスした彼は、この街の探索者ではもっとも年季が長い。ちなみに、現在ここにいる探索者でこの街にもっとも長くいる人間は壇隆二(だん りゅうじ)という治療術師がいる。彼は最初事業団の事務員として着任したが、辞表を出して探索者に志願した。
「45秒。また当たったよ雪」
神足が挑戦する前に、真城雪(ましろ ゆき)が予言したのだ。40〜45秒でしょ、と。五秒の余裕があるとはいえ先ほどから六連続で当てていた。誉め言葉に対してはこれでメシ食ってますから、と笑い返す。
先ほどから行われているのは理事を相手にした相撲大会だった。ルールは少しだけ違い、理事は両手親指を後ろで縛っており、足技は禁止されていた。つまり腰と肩だけでいなさなければならないということだった。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という第二期屈指の戦士から始まったそれは腕に覚えのある戦士たちの挑戦を呼び、しかしこれまで七戦していちばん長持ちしたのが今の神足の記録である。日々怪物たちと殴り合っている戦士たちが両手を縛られている50代の男性に七人連続で転がされたのだ。30秒ももたずに。
「雪だったらどれくらいもつ?」
落合が最強の女戦士に水をむけた。彼女は後衛だからよくわからないが、その動きの素早さ正確さには定評があるのだという。真城はすこし考えてから、40秒くらいと呟いた。でも、みんなの見てる前で転ぶなんてイヤだからねと釘をさす。声が大きかったのは期待を込めて視線を送る第一期の探索者たちに言って聞かせるためだろう。
ざわ、と見物客が揺れたのは北酒場の入り口に越谷健二(こしがや けんじ)が現れたからだ。顔に大きな青あざをもち青面獣という異名を奉られている彼が現在の探索者では最高の戦士だというのは衆目の一致するところだった。事情がわからないまま理事の前に引っ張り出され、雲の上の人物にぎょっとした表情をした。しかしルールを説明されてその目に闘志がわきあがると、皆が立ち上がって土俵を取り囲んだ。それでも真城たちのテーブルからは見えるように人垣が欠けているのはこの街の女帝に気を使ったためだ。これまでは泰然自若としていた理事が越谷を見て腰をほんの少しだけ落とした。その動きにどよめきが起きる。最前列で観戦していた高田まり子が「一分いけるかどうかで賭けるわよ! 一口千円から!」と声をあげた。即座にトトカルチョが始まる。みな十口単位で買っていた。ほとんどは一分以内だった。
香奈、と真城が落合に声をかけた。キャリアウーマンを思わせる風貌の女性は得たりとばかりに立ち上がった。
「一分以上に十万円」
落合が小走りに向かった先は、第二期の探索者たちの一団。女性だけのそのテーブルに声をかけると全員が立ち上がった。そして総計五人が何気ない顔をしながらトトカルチョに書き込んでいった。真城雪の友人が十万円も賭けたとなれば追従する人間が現れて儲けが少なくなる。それをわかって買い役を別に雇ったのだった。
五分後、協力者に一人一万円ずつ払い戻しをしてからテーブルの上の札束を数えた。一勝負で十万円が三九万円に化けていた。
「たとえば翠ちゃんだったらどれくらい持つ? 橋本さんだったら?」
その質問に考え込んだ。橋本さんだったら、おそらく理事があの状態なら勝つんじゃないの? という答えに驚いた顔をした。それもまた不思議な話だが、理事のこれまでの戦績はそう思わせるほど圧倒的なのだ。
「翠ちゃんは50〜55秒ってところじゃないかな」
視線を送った先では理事と津差を除いて笠置町姉妹、その母親、真壁啓一と常盤浩介(ときわ こうすけ)、神田絵美(かんだ えみ)が談笑していた。双子の妹の顔が真っ赤になっているのは酔いだろうか? 冷やかされているのだろうか? 真城は立ち上がった。場内がどよめいた。全員の期待を受けて苦笑し、同じように期待している真壁をじっと見つめた。お前がやれ、とその顔に命じる。
「ここに三九万ある! 一分以上もつ方に賭けるよ! 誰かカウンタいない?」
場内がどよめき、高田の持つノートがあっという間にひったくられた。
呆然としている真壁の顔にウインクしてみせる。お前はそろそろ自信を持ったほうがいい、そう心の中で語りかけた。