10時29分

その言葉を待っていたのよ、と巴麻美(ともえ あさみ)はお茶を飲み込んだ。そして小さく息を吸い込み、愚痴の最初を切り出した。そりゃあたしだって、実家に帰ってのんびりおせち食べたかったわよ。東京に二人でいるよりはご飯出てくるところでお酒飲んでる方がいいんだから。でもあの野郎!
あわただしい正月が一段落して彼女は実家に帰ってきていた。明後日からはもう仕事がはじまる。のんびりしていられるのも残りわずかだった。遅すぎる帰郷の娘、勝手なことを言うのだろうと待ち構えていた両親だった。が、予想に反しての娘の愚痴に母親はちょっと面くらい、対面を待ちぼうけにさせられていた父親は剣呑な顔つきをした。やくざの親分に見える父親のこと、少し表情に緊張が走ると周囲がはっとする凶相になる。
この正月、大晦日からずっと遊園地をまわっていた。30日の夜に東京駅で出迎えたと思ったらそのまま舞浜へ、ミラコスタでの年越しかしら、あらステキと胸をときめかせていたら舞浜にいたのは日中だけ、夕方から町田へ移動した。元旦は町田の駅前のホテルで目を覚まし、午前中は近くの遊園地、午後からは水道橋だった。そして新宿発の最終バスで富士山が見えるところまで移動する。富士の裾野で絶叫マシーンに乗らされてまた高速バスで東京に戻り、後藤はそのまま会社に向かってしまった・・・。
どうせ結婚するのだから、これからいくらでも正月は来る。自分が選んだ男が優先順位のかなり高い場所に仕事を置いていることもわかっている。28才にもなればそういったことすべてを理解するべきだし許容する気持ちもあるが、それでも愚痴の一つも言わないと収まりがつかないのだった。
このようなことをずらっと並べたら、さすがに両親兄夫婦ともに唖然としたようだった。遊園地、ねえ……。と母親が呆然と呟く。まさか年末年始に四つの遊園地をはしごする新婚夫婦がこの世にいようとは、それが自分の娘だとは思いもしなかったのだ。ふざけてる話でしょ! と愚痴をまき散らす娘にもあいまいにうなずくだけだ。非現実的すぎてどう判断していいのかわからない。
まあ、なんだ、と父親がとりなした。
男にとって仕事ってのは大切なもので、たまには何よりも優先しなけりゃならんときもあるんだ。家計を支えるのは彼なんだから、仕事について文句は言っちゃいかん。古風な父のその言葉に家族で苦笑した。それを一段落として、お仕事はどうするのと義姉が訊いてきた。五月までは引継ぎのために勤めることにしていたが、それからは漠然と辞めるつもりだった。しかし会社側からは京都支店の事務欠員にどうだという申し出がなされていた。麻美は首をかしげた。
「何しろ誠司は出る杭は打たれるタイプだし、頑張りすぎて人柱を選ぶときは第一候補だから私の稼ぎ口も持っておきたいんです。だから乗り気なんですけど――」
問題でも? 兄の言葉にこの三日を思い返した。
「すまん、すまんって私に謝りながらもあんな強行軍するくらい大変なお仕事だったら、すぐ近くにいて支えてあげる方がいいのかなと今回思ったの。まだ決めていないけど、迷宮街の食堂でウェイトレスでもするのがいいかもしれない。京都支店だとどうしたって私が先に家を出ることになっちゃうから」
それがいいだろう、と両親がうなずいた。彼が仕事のやりすぎで人柱になったら、とりあえず辞めてうちに来ればいい。彼なら次の勤め先はいくらでも紹介できるからしばらくのんびりすればいい。
ちょっと、人の旦那勝手に無職にしないでよ。麻美は笑った。