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準備はよろしいですか? と高田まり子(たかだ まりこ)は仲間たちを見回した。うなずく顔ぶれは一様に緊張している。もし少しだけ事情を知っているものがいたら奇異に思ったことだろう。彼女が『魔女姫』という異名を奉られる探索者中最高の魔法使いであり、たった一人すべての術を修めた逸材であることを知っていたら。そして、彼らがいるのが迷宮第一層、階段を降りてすぐのおよそ怪物と出会いようもなく出会ったところで脅威にならない場所だと知っていたら。精鋭四部隊と呼ばれる彼らが緊張感を表に出すような場所ではないと知っていたら。しかし誰一人としてふざけている様子はなく、高田は表情を確認してツナギのポケットの中から一枚の紙片を取り出した。すでにくたびれきっているそれは、彼女が何度も見直したものであることを示している。高田はもう一度その内容――数字の羅列だった――を瞳に焼き付けると目をつむった。
周囲に警戒の視線を送りつつ、魔女姫を見守っていた神足燎三(こうたり りょうぞう)はぎょっとして周囲を見渡した。第一期の初日に試験をパスした最古参の生き残りである彼、戦士の他に治療術師の素質もあった彼には周囲のエーテル総量の異変が感じられたのだ。これは――かつてなく強力だった。それも、信じがたいことだが身体の中に入ってくる。自分を包む空気が変質するような魔法使いの術の感覚、あくまでも肉体の状態が変化するような治療術師の術による感覚、そのどちらとも違うそれは、身体を構成するものの隙間にエーテルが入ってきているような。めまいを起こす自分を叱咤した。この術の直後自分達が訪れる場所、そこは怪物の群れの中心かもしれないのだ。意識をしっかり持って、対応できる姿勢を調えないと・・・。そして視界に黒田聡(くろだ さとし)の顔が入った。エーテルを無意識のうちに利用して武器防具を強化する素質を備えた彼にとってこの状態は、神足が感じるよりもっと負担の大きいものらしい。その顔は真っ青で歯を食いしばっていた。
隙間にくまなく入り込んだエーテルが膨張するように感じられた。これは、と恐怖を感じる。身体が内部からほぐされる――
この世から自分の存在が消えた。
そして生まれた。
見慣れた第四層独特の、鍾乳洞のように磨きぬかれた壁が視界に入った。どうやら術による瞬間移動は成功したらしい――いや!?
足の裏に地面がない! その感覚に恐慌を起こし、じたばたと身体を動かした。境周(さかい あまね)が驚きの咆哮をあげた。そして接地した。ぐきりと右足首に痛みが走る。まずい。全身が総毛だつ。自分が満足に戦えない状態で、もしここが化け物に囲まれていたら――。その心配を打ち消すように視界に化け物の姿が映った。囲まれている!
その恐怖が染み渡るより早く、化け物は背を見せて走り去っていった。およそこれまでの日々で聞いたことのない恐怖のわめき声を上げながら。悲鳴は10秒続き、後には静寂が残った。「円陣」 高田まり子の声にびっこを引きつつ位置を確保する。そして、足をくじいたと申告した。
高田は額の汗をぬぐった。訓練場の鹿島詩穂から第四層で転移に適した場所の正確な座標を教えられていた。魔法使いにとって一番大切なものは術を起動する力ではなく距離をつかむ感覚だ。日々その訓練を欠かさない高田は、200m向こうにいる人間との距離を誤差五センチで目測することができた。だから、目標位置の座標設定は完璧なのだ。でも一つ見落としをしていた。
魔法使いが術を使うとき、自分を基点にしてそこからの距離を指定して起動する。その「自分」という二文字が魔法使いによって大きく違っていた。高田の場合は自分のヘソがそれにあたる。しかし例えば西谷陽子(にしたに ようこ)は胸を基点にするというし笠置町葵(かさぎまち あおい)は頭だという。鹿島詩穂はどこだったのか? それを確認していなかった。普段まったく気にする必要のないことだったから。
おそらく、と30センチほどの落下距離を考えながら推測した。鹿島はおそらく胸を基点にしている。だから、「地上から**メートル**センチ下に転移するの」と説明されたとき、彼女はその高さに「胸」を合わせるつもりで指示したのだろう。しかし、自分はそこに「ヘソ」を持っていった。その高さのずれが小さな墜落を引き起こしたのだ。
縁川さつき(よりかわ さつき)が神足の右足首に手を当てて治療している間、以上の事情を手短に説明した。黒田が身震いしその誤差が逆じゃなくてよかった、と呟いた。その通りだ。皆がいっせいにうなずく。
もし、鹿島が「ヘソ」の位置として指定した高さに高田が「胸」の高さをあわせようとしたら? おそらく膝から下が地面と同化していたはずだ。自分の肩を抱いて目をつぶり、安堵の息を吐いた。