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資料室から漏れてくる不審な音で三峰えりか(みつみね えりか)は目を覚ました。寝てしまっていたことに気が付いて、慌てて顔の下に敷かれていた手紙を見下ろす。よだれの跡がついていないことにほっとした。自分は寝言もいびきもないけれどそのかわりよだれをたらす傾向がある。どうでもいい落書きならともかく眼下にあるのは海外の知己に対する英文レターだ。目上の人に当てるそれは、礼儀として万年筆(セレニテという非常に美しいお気に入り)でものされていた。慣れない直筆、日本語に比べれば慣れない英文、書き損じが許されない万年筆。眼下にあるのはそれらを通り抜けてきた紙片だったが一滴のよだれにはそれらすべてを台無しにする破壊力がある。
相変わらず資料室の物音は続いている。自衛隊の人たちは何を・・・と思い、彼らを呼ぼうと考えた。しかし一瞬で思い直す。資料室にあるのは三峰たちがこれまで積み上げた研究成果だ。紙よりも内容に価値がある極秘事項だ。この場合阻止すべきは盗まれることではなく読まれることなのだ。立ち上がり、手元にあった文鎮を握り締めた。探索者を目指して運動している人間の力を見せてやる。
日が落ちすでに暗い通路に扉の隙間から漏れ出る光。たまにそれがさえぎられるのは、侵入者が歩き回っているからだろう。扉の脇にぴたりとはりついて息を整えた。足音が止まるとは読みふけっているということ。そのタイミングを待った。
そしてドアを蹴り開けた。同時に思い切り金切り声をあげた。女手で侵入者をどうにかできるなどと最初から思っていない。読むのを邪魔し、自衛隊が駆けつけるまで無事でいられればいいのだ。仰天した侵入者が振り向いた。
「みみみ三峰さん、なにやってるの?」
上司がそこにいた。


呼び寄せてしまった自衛隊員にバツわるく、お茶でも入れましょうかという申し出を笑って断られてから、二人して資料室に腰掛けた。今日までお休みじゃなかったんですか? という質問に後藤誠司(ごとう せいじ)は休みだよとなんでもないように答える。その視線は一心に本日の買取結果を見つめていた。何か気になることでも?
「高田さんの部隊が今日から第五層だろう? 取ってきた成分に違いが出てるかなと思って」
上司が言うには、彼がいま推進している計画にはものすごい金額が必要になるらしい。それだけの利益の減少を投資として理解してもらうためには、探索が下層に及べばそれだけ利益率が向上するという説得の材料が必要なのだった。なんとか資料は見つかったから、これから検討するのだという。閉めておくからもう帰っていいよ、と言われたがそばに座っていた。たった一部隊の収穫量を理解するのにそんなに時間はかからないはずだ。だったら質問されたときのためにいてあげよう。
後藤は紙片に視線を落としながら、きちんとお休みは取った? と話しかけてきた。まさにいまこの場にいる人に気遣われてもなーと心の中で元日は休みましたよとの答えに視線が飛んでくる。視線を感じて動悸が早くなった。やっぱりまだこの顔は怖い。
「あんまり根詰めないようにね。君に期待しているのは週40時間でCを取ればいい仕事じゃない。週20時間でもいいからAプラスしか認めない仕事なんだから」
相変わらず高く評価してくれるボスに少し感動して、大丈夫ですと答えた。年末年始は午後三時にはあがったし、きちんと恋人とも会っています。いまこの街に来てるんです。
「それならなおさら彼に時間を割いてあげたらいい」
そして、仕事のために誰かに負担をかけるのは辛いことだと呟いた。ふっと気になった。正月三日にここにいる所長、たしか新婚の奥さんが東京にいるのではなかったか。ほうっておいて大丈夫なのだろうか? しかし直截には訊かず、奥様はどういう方なんですかと振ってみた。ボスは顔を上げた。三峰はさらにはっとなった。今までのすべてがまだ優しいと思えるその悪相を見て、ああ、これが制御できていない素の顔かと納得する。こんな表情の生き物とずっと一緒にいようと思うなんていったいどういう女性なんだろう? 話の接ぎ穂だった質問だけど急に興味が湧いてきた。
制御できていないのは表情だけではないらしい。嬉しそうに「写真見る?」 と訊いてきた。ぜひ!
富士山を背にして思わず声が漏れるほどきれいな女性が笑っていた。いい女だろう? といかにも子供のような声に微笑んだ。認めてくれるのは嬉しかったし能力とバイタリティは尊敬していたけれど、どうにも怖かったこの所長を好きになれる気がしてきた。写真を返すと、しばらく二人とも黙っていた。
「あの、読んでてわかります?」
「なんとか。資料と首っ引きだけどね」
その資料を読むだけでもたいしたもんだと床に積み上げられた図冊の山を眺める。よし、と後藤は立ち上がった。
「今日はこれくらいにしておく。明日は探索者の試験なんだ」
あら、と驚きの声を上げた。自分も試験を受ける予定だったからだ。今日は恋人には床で寝てもらうつもりだった。