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エレベーターに乗ると人は階数表示を眺めてしまう――そんな言葉を以前テレビの中から聞いたことがある。最近では『エレベーターに乗ると階数表示を見てしまう人が多い』という法則もまた有名になり、あえて他を、前方か、足元か、携帯(これは多い!)か、あるいはどこか別の世界かを眺める人間が増えてきた。しかしすぐ下に顔があるその娘にはまだそういった自意識は希薄なようだった。口を半開きにし、移り変わる数字をぽけーと眺めるその横顔を盗み見ることが最近の常盤浩介(ときわ こうすけ)のひそかな愉しみでもあった。年齢では二才上だがどうしてもそうは思えない。
地上階につき、歩き出す。玄関を押し開けて出た夕闇の寒さに自然に手をつなぎながら食事と明かりのある場所へと向かった。そして大丈夫かな? と呟く。笠置町葵(かさぎまち あおい)は怪訝そうな顔をした。
「二人で残しちゃって」
ああ、と笑った。心配いらないよ。普段だって翠の方が強いのに、真壁さんグロッキーなんだから。襲いかかったって間違いは起きっこないって。楽天的な言葉に首を振った。いやいやそうじゃなくて。
「なに?」
「真壁さん、翠さんには甘いでしょ。ムリしてさらに風邪こじらせるんじゃないかな」
笠置町姉妹をホームで出迎えた常盤の口から真壁啓一(まかべ けいいち)が風邪でダウンしたと聞いて、笠置町翠(かさぎまち みどり)はだらしないなあと笑った。せっかくお土産を買ってきたのに、今夜でなくなっちゃうんじゃないの? 桜肉の刺身と野沢菜漬けを軽く叩いて笑っていたが、いざ北酒場でそれを広げて少ししたらもじもじし始めた。本当になくなりそうだね。取り分けてあげようか。葵にご機嫌を伺うように聞く。妹はため息をついた。とっておくのも面倒だし見舞いがてら持っていってあげよう。望んでいた言葉を言ってやる。表情がぱっと明るくなった。
普段はモルグに寝泊りする男だったがさすがに安静すべしとて、今夜は六階の個室を取っている。部屋に担ぎ込んだ当事者である常盤が見舞いのためにと要求したので鍵は簡単に渡してもらえた。部屋の中は病人特有のよどんで湿った空気で満たされていたが、しかし病状自体はずいぶんとよくなったのか熱は微熱程度にまで引いているようだった。
小皿に取り分けてラップをかけた馬肉と野沢菜を冷蔵庫に入れて立ち去ろうとした三人に、いや、そのうちの一人に病人から声がかかった。しょんぼりしてるぞ。実家でなんかあったか。聞くくらいならできるぞ。姉はぎくりと立ち止まり、形だけ遠慮してから再度勧められ部屋に残った。
「あー、真壁さんの具合ね。忘れてた。うーん、でも、翠の世話慣れてるし」
そして正直つらかったのよーと愚痴をこぼし始めた。正月にあわせて帰省した木曾に、姉の憧れの人である従兄も来ていたのだという。それは当たり前のことであり、だからこそ帰省前の姉は浮かれていたのだが、問題は従兄が恋人を連れてきていたことだ。そして今年のうちには結婚するつもりだと公表したこと。葵は浮かれて登ったはしごを外されて墜落する人間を目の当たりにしたわけだ。
落ち込んでいることが周囲にバレてはいけない、親族の一人になる女性に失礼をしてはいけない、笑顔笑顔、必要のないところでも笑顔。たまにしか会わない古老たちは「翠ちゃんも愛想よくなって」「京都にやったのは正解だった」と喜んでいた(おかげで今年のお年玉は一五万を越えた)のだが、常日頃姉を見ている自分にはその姿だけで悲しくいたましく、鬱陶しい。ものすごく疲れた年末年始だった。正直なところ、今夜くらいは解放されたいと思っていたところだった。真壁が寝込んでいると聞いて愚痴を聞いて欲しかった姉も落胆しただろうが、度合いで考えれば自分の方が大きかったと思う。
それらの事情を聞き終え、厄介者を病人に押し付けたのか、とじろりと視線を送った常盤の表情がぱっと明るくなった。じゃあ、今夜翠さん部屋に戻ってこないかな!
あほですか、と言下に否定された。いくらなんでも夜っぴて話につきあわせるような無茶はしません。三〇分も話したら帰ってくるでしょう。だから――
「だから、ご飯食べたら今夜は部屋を取ろう?」
立ち止まり自分を見上げる笑顔、きれいな鼻梁をかるく指でなぞった。