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この数日は菜食だけで過ごし日々の半ばを瞑想に費やしている。高度の精神集中の末に研ぎ澄まされた心身には熱と活気が渦巻く鍛冶場は辛かった。今日の分の集中がこれで台無しだろう。理事はいい顔はしないはずだった。それでも外出したのはあるの男性の様子が気になったからだ。街を駆け巡った知らせに――誰も思いもしないだろうが――余人に劣らず衝撃を受けているであろう男性の様子が。目的の人物は鍛冶場の奥まったところでツナギと鉄剣の山の前に立っていた。一つ一つを手にとって一瞥するだけで修理を担当する鍛冶師を割り振っていく。訓練場の教官の一人である鹿島詩穂(かしま しほ)はその背中に声をかけられず立ち尽くした。普段のかっちりしたスーツ姿ではなく真っ青なジャージを羽織った彼女を若い鍛冶師がものめずらしそうに眺めて通り過ぎた。
鹿島が見つめている男の名は片岡宗一(かたおか そういち)という。もう三十代の半ばを過ぎた熟練の鍛冶工だった。粗野で大作りの外見の与えるイメージとは違い、材料工学を博士課程まで修めた俊秀でもある。鉄鋼会社に勤めていたところをどういう縁か前任の商社責任者に引き抜かれてきた。以後、迷宮内部の扉、電気と電話の設備、探索者の武器防具にいたるまでおよそ金属が絡んだ問題で彼の意見を仰がぬものはない探索事業の影の功労者でもある。
その功労者は最近一つの目標に文字通り心血を注いでいた。迷宮内部で特産される不思議な特性をもつ石をもって武器防具の性能を向上させることがそれだった。
内心では複雑な心境なのだろう、と常々思いやっていた。必死の思いではじき出した鋼鉄の配合率、剣先のフォルム、ツナギの金属糸の量と編み方――片岡が信じて仕えてきたそれら現代科学の成果を軽々と凌駕したひとかけらの石を認めることに敗北感を覚えたとしてもおかしくはなかった。しかしこの鍛冶師は何も言わずに頭を切り替えその石を利用してなお効率の良い活用法を追い求めた。その行動を支えているのは自分が探索者たちの生命を預かっているのだという責任感と義務感。口にこそださねど鹿島は感動していた。
そして今日、石の効率的な活用法を探るためのサンプルとして協力していた剣士が死んだ。真壁啓一(まかべ けいいち)というその場にいた戦士の証言によれば、巨大な昆虫の群れの一匹の体当たりを肩で受け止めたその戦士――越谷健二(こしがや けんじ)の上体が思いもよらずにぶれ、がら空きになった喉に他の昆虫の角がめり込んだのだという。最後の瞬間を見た罠解除師も言っているが「たった一匹の衝撃であそこまで上体が崩れるなんて思わなかった」とのことだった。それを聞いて鹿島はある会話を思い出した。どれくらい前だったろうか、この石の活用の仕方を話し合った際のことだ。ツナギにも石の効果を及ぼすことに対して片岡は反対したのだ。硬度が上がるから切る、刺すに対しては効果があがるが、純粋な打撃はそのまま身体に伝えてしまうと。それを体さばきでカバーするから大丈夫だと請合ったのがほかならぬ越谷だった。
最後に一枚のツナギが残された。喉もとから下が化け物のものではない鮮血に染まり、左肩から覗いた金属糸が不気味にきらめいている。片岡はそれを抱え上げるとしばしの間じっと見つめていた。
数日の斎戒をもって敏感になっている肌が空気の揺れを伝えてきた。眼を凝らすと眼前の男の首、肩、腕、全てが小刻みに震えていることがわかった。何か言いたかった。あなたのせいではないのだと。ものには運不運があるのだと。どうにかしてその心中の嵐を鎮めてやりたかった。しかしただ背中を見つめているしかできない。
震えが止まった。鍛冶師は一度だけ大きく息を吐き出すと、ツナギの布地が破れた部分に顔を近づけた。そして損傷を丹念に調べ始める。
魔女は少しだけ安堵して、邪魔にならないようにその場を立ち去った。