18:03

トン、トンとキーボードの端を指で叩いている。この椅子に座ってから一五分、いつもなら一日分の日記を書き終えて席を立っている頃だ。しかし今日は一文字も書くことができずにいた。大きく伸びをして、真壁啓一(まかべ けいいち)は視界の隅に立っている人物に気づいた。表情が気まずそうにゆがむ。同じ表情が笠置町翠(かさぎまち みどり)の顔にも表れていた。こめかみにはバンドエイド、そして貼られた布地からもれるほど大きな青アザができている。
「ごめん」
奇しくもまったく同じ言葉が重なった。お互いの顔をはっとして見やり、そして同時に苦笑に変わる。ごめんな、ともう一度真壁が言うと翠は首をゆっくり振った。
越谷健二(こしがや けんじ)という戦士の死体を運ぶためのタンカを取りに階段を駆け上がった真壁に対し、なぜかそこにいた翠がしがみついたのだった。気が焦っていた真壁はどけという言葉とともに翠を突き飛ばし、痛みの悲鳴を無視してタンカを引っ担ぐと地下に駆け戻った。
血を洗い流し死化粧を施した越谷を囲んで初めて自分がしたことを知り、慌てて探したが見つからなかった。すぐに連絡するべきだったが自分もまだ気が立っていることを感じて謝罪は翌日にしようと思っていたところだ。どこで聞きつけたのか、それでもありがたかった。今日のうちにせねばならなかったことが一つできたのだから。
しかし、もう一つは――ウェブ日記の記入画面が映ったブラウザを最小サイズに縮めた。何を書けばいいのかまったくわからないでいる。
「どうしたの?」
おずおず、といった声にもう一度翠を見やった。メールのようなもの。毎日由加里に送っているんだけど。
「書くことが一杯ありすぎて困ってるんだね」
真壁はうなずいた。そして首を振った。その通りだ。そしてその通りじゃない。伝えなければならないことがたくさんある。それは確かだけど、どうすれば伝わるのかわからないんだ。俺の文章能力とかいう問題じゃない。多分、何を書いてもこの街を知らないあいつには理解できないと思うんだ。
「理解できない人間に軽々しく語っていいこととは思えないんだ、今日のことは」
そうかもね、と翠はうなずいた。しばらく黙って、真壁はもう一度名前を呼んだ。呼ばれた娘は首をかしげる
「逃げだと自分でもわかっているけど――悪いけど、俺はもう終わりにする。この街を離れるよ」
女剣士はしばらく黙り、そしてさびしそうに微笑んだ。それがいいよ。そしてもう一言。真壁さんが死ぬところを見ないで済むのは嬉しいよ。
悪いな、と苦笑いするともう少しはっきりした笑顔が返ってきた。ねえ真壁さん、飲みに行こうよ。北酒場じゃなくてタクシー呼んでさ。
「いいね。けど薄暗いところに行こう。顔のアザ、結構目立ってるから」
翠はそっと指先でこめかみを抑えた。そして微笑んでうなずいた。