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会話をしたことはなかったが面識はあった。先月の半ば頃、探索者の救助にすこし協力した際にその場にいたからだ。その翌日にも妻と食事をしているときに女帝真城雪(ましろ ゆき)にくっついて挨拶にきたはずだ。理事の娘で――名前は、翠。そう。笠置町翠(かさぎまち みどり)だったと思う。双子の妹がいて、そちらは葵といったはずだ。自分ですらその圧倒的な存在感を感じ取れる剣の達人である理事の薫陶よろしきを得る天才女剣士。若年そして実戦経験の少なさにも関わらず道場で彼女より強い剣士は数人しかいないという評判だった。そんな剣豪にしては、なんだかそわそわしているようだけど。しきりに腕時計と壁掛け時計に視線をやる姿を意外に感じる。
ともあれ理事の娘であり有力な探索者である女に無礼はできないと二度ほどお茶を淹れていた。
何を待っているのかな? その問いに、自分よりも10歳以上年下の娘は恥ずかしそうに笑った。仲間の戦士が今日、第四層に潜っているんです。ほんとうに危なっかしい人だから心配で。第四層でも大丈夫でしょと昨日保証しちゃったから、それで死なれたら寝覚め悪いですから。
なるほど、とうなずきながら奇妙に思う。第四層まで探索の足を伸ばせばどうしたって帰還は16時以降になるはずだ。まだ壁の時計は14時半である。あと一時間半以上待つつもりだろうか?
気分転換のために話し掛けてみた。そういう、他の部隊との交流はよく行われるの? 答えは否だった。今日潜っている戦士の発案なのだそうだ。生き残るため、少しでも深く潜るためには部隊を超えて経験の共有を行うべきではないのかと。後藤は感心した。その真壁という若者には面識はないが、探索者にもそういう動きがあるのだということに励まされる。心強く思っていたら娘の方が話し掛けてきた。ゴンドラの設置は順当に進んでいるんですか?
「探索者内での賛否には私は関わっていませんが、設置自体は行われるものとして進んでいますよ」
でも、と娘は不思議そうな顔をする。徳永さんは、合意を得られなかったら許さないと言ってますけど。
「それは、私の提示する価格基準を許さないということらしいですよ。合意を得られなかったら現状の第一層第二層での買い取り額は据え置きで、第三層第四層の利益をがくんと下げる料金提示もまた一案として行っていますから、そちらを採用するのでしょう」
でも、それって――言葉に詰まる。そのとおり。努力すればするほど報われない報酬体系の事業が長続きするはずはない。もしもそんな体系が採用されたら近い将来に探索事業は頓挫するはずだ。その恐怖感は後藤にもあった。内心では切り出すタイミングは大失敗だったと後悔していた。探索者で触れ合った人間が皆積極的だったこと、ゴンドラの思いつきに自分自身が酔ってしまったこと、そして何より早く結果を出そうと焦ったこと、それらがこの状況を招いていた。もちろん無料で自分の非を認める営業などいないし、それに、こういうときの自分の運の強さを信じていたからなんとなく楽観視していた。
いや、違う。苦笑する。大失敗して路頭に迷っても結婚を解消して(まだ内縁であることだし)新宿駅地下にでも行けばいいだけのことだと思っているから気楽でいられるのだろう。そんな覚悟の人間がひっぱる事業は不幸だなと思わないでもないが、やるだけやってダメなら死ねばいいという性分はもう変えられないので気にしないことにしている。
卓上の電話が鳴った。ぴり、と空気が緊張する。後藤は受話器を取り上げた。
「・・・ああ、はい。一名ですね。あとどれくらいで? 30分、わかりました」
受話器を置いて、再び取り上げた。内線につなぐ。
「安置室? 一つベッド用意してください。葛西紀彦(かさい のりひこ)さんの部隊で男性が一名」
電話の向こうの担当者とは会えば冗談を言うくらいの親しみはあったが、しかしお互いつとめて事務的にする受け答えだった。誰かの死の処置は――もう慣れたとはいえ――好きになれない。
ん? 葛西? ふっと思い出したのは精鋭四部隊のメンバー表だった。そのなかの一つ、自衛隊員である星野幸樹(ほしの こうき)が指揮する部隊の戦士の一人が葛西紀彦、いま電話をかけてきた当人ではなかったか? そして目の前の娘の仲間が出稽古に向かった先というのも――
すいと向けた視線が理事の娘のものとぶつかった。こちらを凝視する瞳、口元はかすかに動いている。何かをしゃべろうとしているのだが、声が漏れていないような。後藤は目をそらした。
「葛西紀彦という男性からの連絡だった。一人死亡したから安置室をあけてくれと。亡くなった方の名前は聞かなかった。すまない」
いえ、と小さく首を振って、口元に手を(か弱いと思えるほど細く感じられた指だった)やろうとして、手首が机の茶碗を倒した。あ、と小さな呟き。視線は広がる液体を眺め、しかし湯気の立つお湯が自分に向かっていることをわかっていないようだった。後藤は慌てて立ち上がりハンカチでそのお湯を防いだ。思ったよりも熱いお湯に悲鳴をかみ殺した。