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気をつけてね、と伝えて下川由美は受話器を置いた。昨日帰ってきたかと思った恋人は今日の昼番が終わった後また新幹線で京都に向かい、到着したとの連絡だった。今日は夜番なので昨日の夜恋人が職場に顔を出したときにちょっと話しただけである。その声がえらく久しぶりに感じる。
いいことあったの? と同僚が声をかけてきて曖昧に微笑んだ。まさか正直に説明するわけにもいかない理由だったからだ。恋人の従妹からUSJのチケットをプレゼントされたということ、わざわざ言うほどのことではない。この安堵感を伝えるには自分がどれだけ心を痛めていたか説明する必要があった。そしてそれはできない。安堵感には恋人の親戚が一つふっきったことを温かく喜ぶ気持ちと、そしてやはり心の中に小さくわだかまっていた不安感が払拭されたこともあるのだから。
ドアが開いて厩務員の一人が駆け込んでいた。由美ちゃん! 悪い! と声をかけてくるその髪の毛はわらでまみれている。説明させずに下川は立ち上がり厩舎へと駆けて行った。原因はわかっている。あの見事な栗毛の馬の件だろう。
隻頼(せきらい)と呼ばれる皇室から委託されている馬にはさまざまな伝説ができていた。いわく言葉を解する。いわく人の心が読める。いわく人の死を予見することがある。いわく世界にたった一人しか背に乗せない。何をバカなことを、と実際に世話する由美は思っている。馬の脳みその容量には限界があるから言葉を解するなどできるはずがない。この馬が明らかに人を選び気高く振舞うその背景にあるのは、宮中育ちで何代も何代も世話人にかしずかれて育った経歴だろうと推測していた。不思議な話だが、宮中というその場所では普通の態度をとる馬よりも気高く気難しい馬の方がありがたがられ子孫を残す可能性にも恵まれていたはずだ。そうするうちに気高さ遺伝子(そんなものがあるのか知らないが)の強いものだけが宮中では生まれるようになった。それだけのことだと思っている。だから遠慮なく引っぱたく。
ところが気後れを感じる先ほどの厩務員などはどうしても腰が引けて隻頼も傲慢に乱暴になる。それが掃除する尻を鼻面で押されてわらに(そして馬糞に)顔をつっこむ結果を呼ぶのだ。負けてはいけない。
隻頼は淋しそうだった。たった一人なついている男は昨日一日そばにいただけでまたいなくなってしまった。最近では丸くなって他の厩務員の世話を受けるようになりつつある(転ばせるが)から不自由はしないものの不足は感じるらしい。他の厩務員に比べてまだマシだった下川を呼ぶことが多々あった。
「ほーら、どうした? 隻頼」
いつもは気高くぷいと顔をそむけるその馬は、なんだか不安げに鼻面をこすりつけてきた。おかしいな、と思いながらそっとたてがみをなでてやる。
「どうした? おなか減った? なあに?」
しばらくなでてやったらようやく落ち着いたのか、普段どおりに顔をそむけた。憎らしくもほっとしてその場から立ち去ろうとすると、はっとしたように低くいななく。
――えーと。
何か不安でもあるのだろうか? ともあれこんな心細げにしている馬をほうってはおけなかった。たとえそれがいつも殴りあう仲であろうとも。視界に他の厩務員が通りがかった。ちょっと! と声をあげる。気難しい馬がびっくりしたようにこちらを向いた。
「ごめん! 隻頼が落ち着くまでここにいてあげるから、椅子とヒーター持ってきて!」
なんとなく寝袋も必要になる気がする。それにしても何がそんなに心細いのだろう?