12:13

水滴の音はほんのかすかなものだったけれど、それは広く大きく響いた。かき消すものがなければどんな小さなものでも存在を発揮するものだ。大迷宮第三層にあたるそこは完全な静寂に満たされていた。
無音はそのままに空気だけが揺らいだ。溶岩を思わせる床にところどころある水溜りがさざなみを立てる。眺め渡すものがいればそのさざなみはある一点を中心に放射状になっていることに気がつくだろう。
その中心に当たる個所、地面から1メートル50センチくらいの中心がゆらりとうねった。焚き火の上昇気流をはさんだ向こうの景色が歪むように、そこでは不規則な光の屈折が生まれているのがわかる。そして空気をほとんど動かさずそれでも空気中の何か物質がその一点に集中し始めた。
中心地点の密度が高まり向こう側の景色が見えない漆黒の一点が生まれた。それはどんどんと大きさを増していく。当初は球状に膨らんでいた漆黒の塊は膨らむにつれ複雑な形をとるようになった。人間の形、六体。
漆黒の彫像に色がついた。そこには六人の男女が立っていた。その中で、あごひげを蓄えた男が油断なく四方に視線を送り、大丈夫だと呟いた。
「はい」
ぽんぽんと手を打ち鳴らした女性は笠置町茜(かさぎまち あかね)という。主婦の概念を具体化したようなふっくらとした笑顔はその身を包む厚ぼったいツナギがおよそ似合わない。ここが第三層の転移地点だからね。みんな覚えておいてね。その言葉に残りの五名――ツナギを着て日本刀を腰に差した笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)以外は武器を持たず彼に比べたら薄いツナギを身につけている――は目を閉じた。
目を開いて各人が思い思いにメモを取っているその動作が落ち着いたとき、ツナギをきた男性の一人が怪訝な表情を見せた。彼の名前は緑川浩一郎(みどりかわ こういちろう)という。一重まぶたの細い目も鼻梁も唇もあごも皆細いという印象を与える顔は普段の無表情とは違う不安げな視線を隣りにいる女性に送った。それを受けるのは対照的に下膨れでふくよかな顔つきの女性。探索者の一人で神田絵美(かんだ えみ)という。
「どうにも雰囲気がおかしいと思いませんか?」
「うん。ゾクゾクするね。なんだか敵意をぶつけられてるみたい。第二層はこうじゃなかったよね」
「この場所だからでしょうか」
「そうでしょ? 私たちのツナギだけで編成がおかしいなんて見分けはつかないはずだし、人数もいつもどおりの六人。普段の探索者との違いに気づくとは思えない。違うのは足を踏み入れているこの場所だけだもの。ここってもしかして彼らにとって大事な、たとえば宗教的な意味をもっているのかもしれないね」
だとしたら――神田は続く言葉を飲み込んだ。会話を聞いていた全員が同じ考えに至ったことを知っているので口に出す必要がなかったからだ。出したくなかったからともいう。だとしたら、明日から始まるゴンドラ設置作業は強く組織的な妨害を受けるのではないだろうか? これまでの経験から彼らにはコミュニティ間の戦争があると推測されている。それはつまり戦略も戦術も存在するということ。設置工事を防衛するメンバーは厳選し、実力以下の階層を守るように配分している(誰にとっても実力以下ではない第四層には、教官クラスの助っ人をあと六人投入する予定だ)が、それでも一箇所を長時間守るための緊張の継続は大きな負担だろう。そこに指揮系統を一本化した怪物の連合軍でもやってきたら――。
「今日、星野さん暇かな」
訓練場の教官である鹿島詩穂(かしま しほ)がぽつりとつぶやいた。そう、六人以上の戦闘経験などない自分たちではおぼつかないことも自衛隊という軍隊の士官である星野幸樹(ほしの こうき)ならば回答を持っているかもしれない。少なくとも座学はしているはずだ。今からでも各防衛部隊の指揮官を集めて講習会を行うべきだろう。
「みんな座標はメモした? 間違いない? じゃ、第四層に行くわよ」
理事の女性が周囲を見渡した。同意のうなずきを確認した直後、六人は消えうせた。たちまちにして静寂がよみがえる。
地下とはいえ生物がいるべき場所にはふさわしくない静寂が。