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男の子なら誰だってあこがれる職業があると水上孝樹(みなかみ たかき)は思っている。「運転手さん」がそれだ。それもタクシーなどではなく電車やバスといった巨大なもの、飛行機や船という非日常的なもの、そして工事現場の機械を操作する姿も子どもの心を惹きつけてやまないだろう。少なくとも、第一層だけの作業である今日はのんびり休んでいていいと言われているにもかかわらずに濃霧地帯の奥までやってくるほどには自分の心を惹きつけている。目の前ではキャタピラーで移動するショベルカーのようなものが、壁面に太い鉄柱を打ち込んでいた。うわー、と視線がそこから外せないでいる。時折濃霧地帯の奥から撃剣の音が聞こえてくるが無視した。この階層でわざわざ自分が出張る必要もないだろう。
作業員たちは最初は濃霧地帯の白さに驚いているようだったが、実際に作業が行うあたりは彼らの往来でかなり視界がはっきりしている。支障は何も出ていないようでてきぱきと岩盤を削りボルトを打ち込み足場を組んでいた。
「休憩!」
時計を見て中年の作業員が声をあげると、各人は足場の上でおのおの腰をおろした。人間の動きがなくなれば視界が白に埋め尽くされる濃霧地帯よりは、足場の上のほうが休憩に向いていると判断したのだろう。それはわかる。しかし縦穴の最下層は第四層でおよそ30メートルほどもある空中なのだ。そこの足場で命綱もつけずに休憩できる精神力はどういうことだろう。すごいすごい! と感動を分かち合おうと周囲を見渡すが探索者たちは濃霧地帯の奥で警備にあたっていた。真剣に従妹たちの恋人でも連れて来ようかと悩んでしまった。でも、妹の方にばれたらものすごく怒られるから、呼び寄せるにしても内緒にしないといけない。
そこに自分より少し年上の作業員が通りがかった。名栗さんと声をかける。彼は怪訝そうに自分を見た。警備をするでもなく、かといって探索者から敬意を受けている自分の存在は不思議なのだろうか。それにはかまわず自分も足場に登っていいか? と質問したら命綱をつければ、と快諾してくれた。嬉しい。
「で、命綱はどこですか?」
名栗が眉をひそめて休憩している連中に声をかけた。返答は地上にありますよとのこと。さすがはプロと感動していると、会話を聞きつけた自衛隊員の一人がハーネスつきのザイルを持ってきてくれた。これなら安心だと早速腰に取り付ける。慎重に足場を歩き出した。金属の足場とブーツの裏の鋲がきしんで嫌な音を立てる中、そろりそろりと作業員たちが休憩する方に歩いていった。下を見下ろすと何も見えない。下層は未到達地区であり電灯が設置されていないのだから当然だが、それがとても高いところにいる感覚をもたらした。
どうですか? と少し若い金髪の男が声をかけてきた。にっこりと笑って楽しいです、と答える。場所をあけてくれたので支柱にすがりつきながらそこに腰をおろした。
数分して休憩終了の声がかけられた。身軽に足場の上ですれ違う作業員たちが落ち着いてから、再び支柱にすがりつくようにして立ち上がる。ゆっくりと足場を進んで地面の固い感触を得たときやはり全身の力が抜けた。前方の濃霧の奥からはまた斬り合いの音が聞こえてきた。ちょっと顔をだそうか? とふと思った。午後になったらショベルカーを運転させてくれるというのだ。やっぱり自慢したいと思う。でも面倒だから戦闘の音は無視する。