「こりゃ離婚だな、鯉沼くん。まさか鴨川会長を知らない嫁だなんて」
野村悠樹(のむら ゆうき)の言葉にまったくだと葛西紀彦(かさい のりひこ)がうなずく。いやいや、と鯉沼昭夫(こいぬま あきお)は慈愛のこもった目で妻を見つめた。知らなかったのは仕方がない。これから学べばいいさ。今夜はずっと木賃宿で『はじめの一歩』を読んでくること。いいね。
「・・・マンガ?」
「名作だ」
「・・・私の方こそ実家に帰りたくなってきたよ」
まあともかく、と葛西が説明を始めようとしたとき、会場でも開始の号令がかけられた。それまで憮然とした表情で立っていた佐藤良輔(さとう りょうすけ)が同時に表情を改め、激しい勢いで切りかかっていく。その通りだ、と野村は思った。身体能力はともかく戦闘経験でも心身の消耗でも佐藤が圧倒的に不利、であるなら手数を多くしてまぐれ当たりを狙うしかなかった。そして星野幸樹(ほしの こうき)もそれを正確に予期している。星野が勝つ気ならば勝敗は一瞬でつくだろう。他の意図があれば違う展開になる。
右、左、左、足、右、左、全ての攻撃をきわどいところで抑える星野の表情には余裕がなく、傍目には佐藤が優勢に見えた。佐藤もそう感じているはずだ。自分の攻撃はかろうじて防がれているものの、気合では圧倒していると思っているはずだ。それもそのはず、間断なく繰り出されるその攻撃に一つとして威力気力ともに不十分なものなどなく観客たちはよくできた殺陣を見ているかのように息を呑んでいた。
うわ、おしい、うわ、と小さく呟く友人の妻を見やって野村は感嘆をあらたにする。星野に対してだ。
鴨川会長ってのは――と葛西が中断されていた説明を再会した。鴨川会長はそのマンガで主人公が所属するボクシングジムの会長なんだけど、ミットの置き場所が非常にうまい。選手たちはそのミットめがけて打ち込むだけで自然と綺麗なフォームと急所を打ち抜く正確さを身につけることができる天才的なトレーナーだ。星野さんは総合力で最強クラスの戦士だけど、それよりも何よりも訓練の相手を伸ばす才能では群を抜いている。
「勉強になるって意味では神足さんとタメ張るな。もっとも神足さんは次から次へとこっちの想像を裏切ることしてくるって意味だけど」 野村の補足に葛西はうなずいた。今日子がいぶかしげな声をあげた。じゃあいま、星野さんはわざと打たせているってこと?
そのとおり、と葛西。相手にだけわかる微妙なスキを見せてそこに打ち込ませることで自然とフォームと太刀筋を矯正しているんだ。たしか、星野さんは剣道をやっていたのじゃなかったか? あれもそのたまものか? その言葉に野村は苦笑した。
「確かに有段者だったと思うけど、格闘技をやってるとそれだけで強いって考えるのは素人の悪い癖だな。剣道の経験云々じゃなくて、星野さんは性格的に育てるのが向いていてその勉強をしているからあれほどになったんだろう。俺に言わせりゃ、お前らが太刀筋や動作の正確さについて気にしなさすぎなんだ」
耳が痛いね、と葛西は苦笑した。ともかく、と会場を眺めた。佐藤さんの気迫は実戦と変わらない。訓練だとわかっていたら星野さんの授業も効果が薄れるのはしょうがないけど、この状況だったら全部が血肉になるんじゃないか? 佐藤さんにとっては大会の勝ち負けよりも重要な、今後生きていく上で最高の経験をしていると思う。おそらく星野さんはやるだけやったら打たせて佐藤さんを勝たせるつもりだけど、これで国村さんとの戦いが少し面白く――言葉は野村の驚き声で中断された。
審判が手を挙げている。佐藤の方に。
野村が呆然としたように葛西、と呟いた。
「いま星野さん打たせたか?」
いや、と葛西が首を振る。まだ稽古続けるつもりだった。いまの瞬間、佐藤さんは明らかに星野さんの予想を越えてたな。
こりゃちょっと面白くなってきたよ、対国村戦。そう野村は呟き、予想外の結果に割れるような歓声の中で驚きの表情を喜びに塗り替えた星野と、それに深く頭を下げる佐藤を微笑んで眺めた。
鯉沼が立ち上がった。どうしたの? と妻の問いかけに「もうちょっと面白くしよう」 と笑む。ちょっと境内まで連れていって、体力回復させてくる。ルール違反はわかっているけどそもそもあのオッサンがしゃしゃり出た時点でいらん体力使わせてるわけだからな。仲間としてケツは拭かないとね。ぱちりとウインクをした。