準決勝を前にしても身を包む空気には変化が見られない。ゆったりとしたそれは黒田聡(くろだ さとし)が後衛から好かれる大きな要因ではあったけれど、それでもその空気のまま訪れられた面々はうろたえたようだった。同じく準決勝を目前にして、客席の段差に座ったまま精神統一に余念のない葛西紀彦(かさい のりひこ)を取り巻くその仲間たちは呆れる思いを表情に隠せないでいる。まさか試合の直前にそのセコンド群とも言うべきところにやってくるとは。気づいてか気づかずか黒田は、やはり呆れ顔を浮かべている口ヒゲの男に声をかけた。星野さん、ちょっとお願いがあるんですけど。
なんだ? と気さくな星野幸樹(ほしの こうき)だったが、続いての返答にはさすがに顔をこわばらせた。
「ちょっと葛西くんを鉄砲で撃ってもらえませんか? 頭でいいです」
ざわ、と身を引く動きに同調しないのは心を静めている男だけ。警戒するより先に混乱した様子で星野がもう一度言ってくれと促した。
「どうやら聞き間違えたようなのだが――」
その返答に黒田は勝手にしょんぼりとする。やっぱりダメですか。
いや、ダメも何も――口ごもる星野の様子を野村悠樹(のむら ゆうき)は興味深く眺めていた。星野とは一度も同じ部隊になったことはなく、友人である葛西が頭ごなしに怒鳴られる姿を見て一から十まで怖く隙のない大人だと思っていたからだった。
「頭を撃ったら間違いなく殺人になるぞ」
そうですか、と黒田は残念そうだ。やっぱり死にますかね、葛西くんでも。当たり前だろう、という皆の苦笑に黒田は意外そうな顔をした。
「そうは言っても野村さんのハイキックを頭に受けて平気で戦ってましたよ、この人」
ついで治療術師の鯉沼昭夫にあれから治療したか? と問い掛ける。少なくとも私はしていませんという返事を聞いてほらごらんと一同を見渡した。俺も試合は見てました。あの蹴り食らったら緑龍だって死にますよ。人間だったらもっと安定が悪いから却って吹っ飛ばされて死にゃしないだろうけど、それでもそれから試合を続けられると思いますか?
確かに、と星野は表情を改めた。当事者の野村と後衛たちは試合を続けた以上それほどの打撃ではないのだと受け止めたらしいが客観的に判断できる星野ならわかる。目の前の戦士の言葉通り、あそこで試合が(悪くすると一人の健常者としての人生も)終わってしかるべき蹴りだったのだ。葛西がそのあとダメージを残しつつ戦っていたのであればまだそれは葛西のタフさを印象づけたのだろうが、まったく影響がなかったその後の展開は皆の意識の中でその蹴りを「なかったこと」にしてしまっていたらしかった。
「確かに、あれは今考えると不自然だな」
「でしょう? で思ったんですけど、私が無意識にエーテルを利用しているように葛西くんも実は死なないとかそういう特技があるのではないかなと。何しろ何度も部隊を壊滅から救ってる人ですから。で、まあ鉄砲で頭撃ち抜けばそれで死んだら私の不戦勝ですし、生きてたらかないっこないから私、棄権しますから。というわけでぜひとも星野さんにはこれから数十年ほど刑務所に行っていただきたく」
いただきたく、じゃないだろと星野は笑って了解した。なるほど。黒田は葛西の異常なタフネスについて自分から何かヒントを得られないかと思って来たのだった。そして星野には漠然とした解があった。しかしそれはわざわざ試合の直前に教えてやることでもない。
「自分で掴むんだな。葛西は今日これまでの試合で一つ壁を越えたが、お前は限界を抜けたように見える。これくらいでいいハンデだろう」
そんな、と未練な顔に話を聞いていた面々が吹き出した。しかし黒田は表情を明るく改めた。
「じゃあ、取引しましょう。ヒントでも教えていただけたら由真ちゃんが成人しても私はちょっかいかけないということでいかがですか?」
星野は笑顔を浮かべた。それは魅力的は取引だな! との言葉は目の前の美男子の噂が耳に入っているのだろう。その笑顔のままで続けた。
「そういう冗談はやめたほうがいいな。長生きしたいならな。俺は由真のためなら親だって殺せる」
笑顔は変わらず、しかし葛西がぎょっとしたように顔をあげ星野を見つめた。何か感じ取ったのかもしれない。