はじめの声に腰をぐんと落とした。普段はやわらかい太ももが硬直し膨張するのが自分でもわかった。反応速度は今日いちばんだ、と自分の身体への満足感とともに国村光(くにむら ひかる)は視線を対戦相手に当てた。敵手である神足燎三(こうたり りょうぞう)は右手の木の剣を肩にかけたまま棒立ちで国村を見ている。その姿勢に勝機を、しかし次の瞬間には他のものをも見出した。前へ飛び出そうとした動きをとどめたのはそれが原因である。はじめの声を受けてほんの一歩だけ神足が踏み出したその距離。スピードを殺さない踏み込みで国村が接近したら、二歩と少しだけ足りない。そして神足は二歩目にあわせて一歩踏み込むだけで木剣を当てることができる距離。気をくじかれて国村は半歩だけ背後に跳躍した。
危なかった、最初に決めたとおりに突っ込んだら完璧にカウンターだった。
心の中で冷や汗を流しながらそのまま神足を中心に弧を描くように左に動く。そうしながらも微妙に前進し、トップスピードで切り込める距離に調整した。
よし、いまだ――その意識はまったくの遅滞なく筋肉に伝達され、体重が右足にかかった。
すい、と神足が半歩を踏み出した。
国村は再び棒立ちになった。まただ。また、こちらの最高の距離を最悪の距離に変えられた――二度も続くなんて偶然だろうか? まさか、まさか。
「どうしたい、国村よ。そっちがこないのなら俺から攻めないとダメか?」
意図してかどうか、二度も出鼻をくじいてくれた男ののんきな言葉に少しかっとしたが、その自分に対する警報が逆に国村を平静に引き戻してくれた。背を伸ばし大きく息を吐き出す。そして苦笑した。
「そうですね。あなたから踏み込んでくれればこちらも嬉しい。先手はお譲りいたしましょう」
ほお、と意外そうな神足の表情。しかし当てが外れたというものでもないらしく彼はあいている左手を背中に伸ばした。柔らかな肩関節を想像させる滑らかな動きで背中を何かまさぐり、その動きが止まった。さて、最初に気になった肩がけの帆布、どうやらそれ自体もしくはその中に何かあるのだということはわかった。一体何が出てくるのか、しかし何にせよ切り合い以外にもう一つ動作を入れるのならもとの剣技が上の相手だろうと五分以上に渡り合えるはずだ。大事なのは、何が出てきても平常心で対応することだ。さあ何が出てくる?
神足は背中から何か茶色の棒状のものを引き出すと、まったくよどみのない動作で――
投げた。
驚きよりも先に投擲された何かが空気を裂く音が警告を伝えてきた。必死の思いで半身になったみぞおちを掠めるように通り過ぎたものは、木刀だろうか? 訓練場では格闘の際に使用される小太刀よりもさらに小さい20cmくらいの木刀だった。それが、ぶつかったらケガではすまない速度で通り過ぎていった。
狂ってる! 観客もいるのに!
避けるしかできず、目で追うしかできなかった木片はしかし試合会場から出る前に静止していた。審判の橋本辰(はしもと たつ)が片手で掴み取ったのだった。彼もまた仰天した視線を手元の物体にそそぎ、まったく同じ視線を神足の方向に向けた。つられて国村も神足を見る。その視線の途中にまた木刀がいた。
左の胸を襲った激痛に空気を求めてあごが上がる。狭くなった視野の端にもう一本飛来する木刀が映った。手に持つ木剣を何とか動かして弾き飛ばしたのはもう奇跡に近い動きだったと思う。
軽い音とともに弾き飛ばされた木剣は回転しながら試合会場から飛び出て行く。
「オーライ!」
元気のいい声とともに紺色の袴をはいた娘が身をかがめ、細いその身体が勢いよく跳躍した。さし伸ばした白い手のひらが依然として回転を重ねる木剣を捕らえるかと思ったその次の瞬間、その娘とは比較にならない巨大な物体が同じく跳躍してその木剣をさらっていった。ああ! と袴の娘が悲鳴を上げる。
地響きを立てて着地した津差龍一郎(つさ りゅういちろう)に、寸前で獲物を奪われた笠置町翠(かさぎまち みどり)が悔しそうな視線を投げた。
国村はまだ衝撃のさめやらない頭で神足を見つめた。四本目の木刀はさすがに投げなかったらしく、なんだか機嫌の良さそうな表情で自分の反応を見つめていた。
「木刀投げるなんてあんた何考えてるんだ! 客席に危ないだろう!」
「大丈夫だ。きちんと客席の前にネットは張ってある」
ぐるりと視線をめぐらせる先には、もう立ち上がった第一期の剣士たちが並んでいた。皆木剣を利き腕に握っている。その数は15人以上おり、なるほどと国村は納得した。彼らなら木剣を弾き飛ばすこともできるだろうし、無理でも身を挺して止めるくらいのことはするだろう。それにしても、剣と剣の戦いだと思っていたところにいきなり投げナイフ持ち込んでくるとは。
「飛び道具って、恥ずかしくないんですかあなた」
「ああ、こんなものに頼る男は懲らしめなけりゃいけんなあ、国村よ」
そしてにやりと笑った。
「あと弾薬は12本ある。全部避けきったらお前の勝ちだ。体術の達人の面目をお客さんに見せてやれ。そして、お前らも頼むぞ。飛んでくる木剣からお客さん守りきれ。試合のもうないお前らにせめてもの見せ場だからな」
試合場を取り囲む『ネット』たちの返答はさまざまだったが大半は面白がり任せておけといっているものだった。それらを圧して若い娘の「おー!」という能天気な号令が聞こえてきて国村は歯ぎしりした。小娘め、ひっぱたいてやりたい。