視線は向かいに立つ神足燎三(こうたり りょうぞう)にすえたまま、両腕を頭の上で組み右の脇を伸ばそうと肩を傾ける。自然に突き出された腰が何かに当たり、その何かは小さい悲鳴を発してどさりと何か大きなものが床に投げ出される音がした。国村光(くにむら ひかる)はそこで初めて意外に思い視線を向かいの男からはずした。そこにいたのは笠置町翠(かさぎまち みどり)というサラブレッドと呼ばれる優秀な女剣士であり、こちらがまったく距離を気にしていなかった以上身体がぶつかっても不思議はないが、転ぶような運動神経では断じてなかったから。見下ろした先では見覚えのある娘がなんだか紺色の布地に埋まっていた。
「ごめん、笠置町さん。ところで何をしている?」
ああいえこちらこそすみません、座ったままぺこりと頭を下げてから娘は立ち上がった。それで布の正体がわかった。剣道の袴である。上半身はぴったりしたタートルネックとベストなのに袴とは不似合いもはなはだしい。しかしそれに感じた違和感を追求することもせずに国村は再び視線を試合場の向かいに戻した。怪我をさせたなどということでもなければ理事の娘を気にする必要もなかったからだ。
やっぱりだ。
右肩から左脇へとたすきがけに巻きつけた帆布は無視することにした。その中には何か自分に対してのペテンが仕込まれているのは明らかだったけれど、今からペテンをあれこれ気に病んだところで自分のどんな推測よりもタチが悪いものであることは間違いないから。引き出しの多さでは到底及びもつかない相手である。自分は自分の土俵である身体能力で勝負するしかないのだ。だからこそ細心の注意で彼の状態を図ろうとする。
やっぱり、なんだかずれてるんだよな中心線が。
探索者はみな、とりわけ前衛たちは身体が柔軟だった。激動のさなかで自分の命を守るためには身体の稼動範囲が広いことが必要だと知っているのだ。しかしその中でも軟体動物としか思えない、おそらくヨガ行者も裸足で逃げ出す柔軟さを身につけているのが目の前の男だった。加えて意識してか否か、身体中心線をはさんでの左右の筋肉量もほとんど同じだった。普段は右腕で鉄剣を振るっているにもかかわらずの線対称は、一見訓練嫌いでペテンによって名をあげていると思われるこの男が実は身体を整えることに細心の注意を払っていることを示している。それらを踏まえてしかし目の前の男の立ち居振る舞いには違和感を感じずにはいられなかった。
全身こわばりがなく筋肉が左右対称に整っているならば動作の中心線は身体の真ん中に来るはずだ。そうして左右の動きに最高のポテンシャルを発揮するはずだ。それなのに目の前の男は少しだけ中心が左にずれているのだった。意識してのことではなく、同じだけの筋肉の束を供えているのにまるで左側だけ筋力が足りないかのような。それが不気味であり、訓練場で対戦してもやりづらかった。その変幻自在の剣術だけでも手を焼くというのに、繰り出される剣筋がほんの少しだけ想像から外れているのだから。
「今までできなかったんだから、この場でイメージの調整は無理だよな」
ポツリとつぶやく言葉を拾ったのだろうか。すでに袴を身につけた娘が何ですか? と問いかけてきた。国村は軽くうなずいただけで答えない。
国村の意識は神足だけに向いていた。それは大舞台を前に強敵を前にした人間としては仕方のないことだったのかもしれない。それに、集中するとはそれだけ相手の行動にすばやく対処できるということであってそれ自体はとがめた話ではないのはもちろんだろう。
しかしそれでも、隣りにいる娘が、既に自らの試合は終わったというのに袴をはいて最前列よりも前に陣取ることを不自然に思うべきだっただろう。神足たった一人に意識を向けずに会場を見渡すべきだっただろう。そうすれば会場の四方、最前列にすべて彼が名前を知り稽古相手に認めるほどの練達の戦士たちが2〜3人ずつ陣取り、一様に木剣を脇においていることに気づけたはずだ。各人の顔がなぜだか緊張していることにも気づけたはずだ。しかしそういったことすべてを置き去りにして国村の意識はペテン師と呼ばれた対戦相手にのみ向かっていた。
第一ラウンドは国村の負けということになる。