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「最近すっかり腰が痛くてねえ」
義理の父になる予定の男性のそんな言葉に不思議な既視感を覚えた。義理の兄になる男性がそれをたしなめる。毎日働きもせずごろごろして、それでいて飯だけはたっぷり食ってりゃ身体も悪くなる、腰なんかはらぺこでぐっすり寝ればすぐ直る。ぐっすり寝たかったら畑でもやりなさい、と乱暴な言葉には親への愛情といたわりが満ちていた。今日はじめて顔を合せたこの勝利(かつとし)という名前の男性を、後藤はすっかり好きになっていた。それにしても、既視感はどうしたことだろう? 両親は彼が大学生のときに他界した。親戚とは疎遠だから老人が身近にいるわけではない。親しくしている役員は60代後半だったが精力的なビジネスマンの常に漏れずその言動には老いは感じられなかった。
映画か何かか? それにしては近い。そう考えたとき、ふっとある女性の顔が浮かんだ。それは今日の昼に会った女性だった。
職場でのアシスタントである大沢美紀(おおさわ みき)の親戚である大沢真琴(おおさわ まこと)は迷宮街の第二期募集が始まった二日目に試験にパスしたという。それから同じく新参の探索者と部隊を組み、初陣を経て迷宮街を去った。部隊の仲間の二人が死亡、うち一人は死体も回収できなかったという。それは彼女には哀しい記憶だったろうが、そのことについて話してもいいと承諾を受けていたから今日の昼食の時間を同席したのだった。
客観的に迷宮街の生活や風景を話すその言葉遣い、口調、落ち着きはその高い知性を感じさせ(知性はあるていど家系に左右されるのかもしれない)たものだったが、ひとつ後藤には理解できないことがあった。短い期間とはいえ仲間であった人間の死を見ておきながらどうしてここまで客観的に分析ができるのだろうか? という疑問だった。
それとだ。
老人が腰の痛みを告げる言葉と死地から帰ってきた女性がそこを振り返る言葉。それにはなんの共通性もないように思えたけれど、その背景にあるものが一致していた。それは、自分の苦しみをほかのもののせいにしようという心の動きだった。
目の前の男性が腰の痛みをまるで加齢によって不可避的に味わわせられている拷問だと感じているように、あの20代半ばの娘も自分が経験した恐怖や後悔を誰かのせいにしたいと思っていたのではないだろうか? 彼女が望んで訪れ逃げ出したことを認めたくない、そのためには自分は正常で迷宮街にあるものが異常だと思おうとしているのではないか? あんな異常な場所であっては自分が耐えられなかったのも無理はない――言外にそう言っているように思えたのだ。誰かのせいにして自分を罷免する心の動きは弱さによって生まれるものだ。老人の場合は、いまさら自分の不摂生を後悔して身体を鍛えなおそうと思ったところで時間と体力が圧倒的に足りないという現実がある。その冷たい現実を前にした弱さだと思う。ではあの女性は。頭がよく家柄に恵まれたあの若い女性は、探索者になった選択が自分の責任に帰せられるものだと当然わかっているだろうし、認める強さがあってもおかしくない。頭はよくても心はもろい典型的な優等生のタイプだろうか? それよりも、まっとうな強さを備えている女性の心を折ってしまうようなものが自分がこれから行く街にはあるのかもしれない。そして、それに日々耐えている人間が自分を待ち構えているのかもしれない。おそらく商談としてなら彼らが千人集まってきても後藤の相手にはならないだろう。だが、一個の人間として向き合ったら? 若い娘の心を折るものを平然と受け止めるような人間たちとの折衝は大変なことになるような気がする。
ふっと時計を見ると、もう東京に戻ったほうがいい時間だった。婚約者が、その母と向き合って笑いあっているのが見えた。耳たぶが赤い。いやな予感がする。
呼びかけて振り向いた顔はアルコールで染まっていた。この場が始まる前、ジャンケンで負けた彼女は運転手になるためほどほどにすると決めていなかっただろうか。
「麻美さん、運転できそう? 俺は無理みたいだけど」
んー? と婚約者はニコニコ笑っていた。返答は「大丈夫、有給まだあるから!」
泊まってけ泊まってけと彼女の父と兄が薦めてくる。兄嫁が浴衣はお布団の上にありますからと笑った。婚約者の家族には気にいってもらえたようだった。自分の顔は(自分では実感はなかったが)他人をおびえさせるものがあり初対面の人間はたいてい戸惑うものだけど、彼らは無理している様子も見せず受け入れてくれた。それもそうだろう、と赤ら顔で手酌を続ける老人をみつめる。好好爺めいたそぶりだったが特にその顔には凄みがあり、引退したヤクザの組長と思うところだったからだ。婚約者が、自分の顔が好きと常々言ってくれる言葉は実は嘘ではないのではないか、とその父親を見て思ったものだ。これに比べたら俺はまだやさしいと思う。
ともあれ友好的な雰囲気をなるべく壊したくはなかった。明日の仕事を頭の中で計算した。アポを取っている取引先は二社。どちらも朝一番で謝れば大丈夫だ。
まあ、いいか。そう思い切って注がれた日本酒をあけた。職場では婚約したことは知られているから、二人で同時に休んでも苦笑で済ましてもらえるだろう。