16:22

まだ日の高い午後四時だというのに店内は半ば以上が埋まっていた。さらにソファ席から届いてくる笑い声は彼らが十分に酔っていることを想像させる。見知った顔が開いたドアの下にある自分を見て凍りついた。新郎の上司にあたるその顔は田垣功(たがき いさお)もよく知っているものだった。彼もまさか自分の会社の役員がやってくるとは思っていなかったのだろう。
「いらっしゃいませ専務!」
カウンターの奥からなじみの深い声が田垣を迎えた。いつもどおりの、いちど覚悟を決めないとひるんでしまう悪相が笑っている。それにしても、とその隣で幸せそうな笑顔と雑然とした店内を見回して思った。もうすぐ六五年の人生になるが、こんな結婚式は初めてのことだ。新郎がちょっといないくらい凶悪な顔つきをしていることもそうだし、新婦がきわめて整った美貌であることもそうだったけれど、それよりも何よりも、新郎が慣れない手つきで氷を砕きその隣で新婦が一生懸命グラスを磨いている光景などこれまで祝福の場では見たことがなかった。ここは有楽町駅から少し歩いたビルの地下にあるバーだった。かつて、本日の主役である後藤誠司(ごとう せいじ)に連れられて二〜三度来たことがある。今日は貸切でその結婚式のために開放されていた。
迷宮街への異動にともない突然決まった結婚であるから式は肩肘張らないものにするつもりだとは本人から聞いていた。しかし、スピーチもなければ時間指定もない、案内に記されたバーに記載された時間の間にやってきて適当に酒を飲んでくれというだけの式は肩肘を張る張らないではなく肩や肘の場所さえ見当もつかないものだった。それに、これだ。後藤に懐から取り出した祝儀袋を渡した。彼は嬉しそうに押し頂くと、いそいそとその中身を引っ張り出した。
祝儀袋の中に入っているのは紙幣ではなく、一枚の紙片だった。そこには田垣の文字で「結婚おめでとう」と書いてある。後藤は満面の(自然な、つまり凶悪な)笑顔でためつすがめつすると、その紙を壁にあるコルクボードにピンで留めた。同じような紙がすでに十枚以上飾られている。毛筆あり、ペンの字あり、短いメッセージあり、長い警句あり、紙の色、文字の色、筆致の巧拙はさまざまだったけれど、そこにはひとつ共通しているものがあった。この結婚を祝う強い気持ちである。
『ご祝儀は不要です。その代わり、自分が納得する祝福の言葉を紙に書いてきてください』という文章を式の案内に見つけたとき、貧乏性が抜けていないのか、まずはもうけたと思った。しかしいざ書いてみるとこれが難物だった。
筆記用具はすぐに決まった。ある万年筆である。すでに潰れたメーカーのもので、そうと知らずに彼に購入を頼んだのが彼との出会いのきっかけだった。その時は手に入らず代用品を即座に用意した彼の行動力に感心しただけだったが、それから一年と三ヶ月したある日、奈良の文房具屋の倉庫にありましたというコメントとともにまさにそのメーカーのその型の万年筆を持ってきたのだった。代用品はすでに手になじんでいたがもちろんその万年筆にすぐに乗り換えた。一年三ヶ月も自分のために商品を探してもらったことなど今までなかったからだ。このペン以外に自分の祝福の気持ちを伝えられるものはなかった。
紙の良し悪しはわからないから秘書に命じて適当に高級なものを用意させた。そして最初は長々とした激励の警句を書き記した。幼いころ、教育の一環として学ばされた書道を手は覚えていたらしく、見栄えのいいものができあがった。そして即座に破り捨てた。
これは違う、と感じたのだった。こんな小手先のものではなく、もっと相手を思う気持ちが伝えられるはずだった。暇を見つけては紙にペンを走らせた。その都度、彼らには必要ないだろうものを削り落としていったメッセージはついに『結婚おめでとう』の一言になっていた。
納得のいくものが出来上がったのは一昨日のことになる。子供のように浮き立つ気持ちを抑えられず、秘書に見せた。秘書はしばらく見つめたあとでため息をついて、私もこんなふうに祝福されたいとつぶやいた。不覚にもその言葉を聞いて田垣は涙ぐんでしまった。
しかしその幸せも長くは続かなかった。取引先のデパートに挨拶に出向いた帰り、ふと立ち寄った文房具屋で見かけた紙、その方が自分が使ったものよりもより自分の気持ちを伝えられることに気づいてしまったからだ。気づいてしまったからには、紙の選択でも悔いを残すわけにはいかなかった。
その発見が昨日の午後のことで、それから三軒のデパートを回った。書き上げたのはつい二時間前だった。
新郎と同年輩にあたる若いスーツの群れが田垣の紙を覗き込みにやってきた。そして、おお、と声をあげる。中には「こんなことなら書き直したいな」という悔しそうな声もあった。その言葉の真剣な響きに田垣は笑みをもらす。彼は早晩書き直し、それを新婚家庭に届けるだろう。そうして、彼らの新居は心からの祝いの気持ちで満たされていく。
ソファに座るのは若い社員たちに気の毒ということで、バーカウンターに座った。メニューを見て強めのスコッチをロックで注文する。危なっかしい手つきで新郎が氷をグラスに落とし込んだ。飲み物は種類を問わず二千円と少し高めだが、その儲けが祝儀になるのだろう。
「いい式だな」
心からそう言って後藤はにやりと笑った。雛壇は嫌いなんですよ、と。それでも花嫁の実家がある宇都宮ではきちんとした古式でやるのだそうだ。
「結婚式はあまり好きじゃないんです。ご祝儀は負担だし時間は取られるし、それでいて祝いたい相手とはあまり話ができないし。こいつが結婚式にドリームを持っていたらあわせようかと思ったんですが、こういうのはどうかと相談したら賛成してくれて――いらっしゃいませ!」
振り向くと、華やかなそれでも普通に見かけるスーツ姿の若い女性たちの一団が歓声をあげていた。だぶだぶのボーイの服装がかわいらしい花嫁にかけより、両手一杯の花束を渡している。一人として社内で見かけた覚えがないから新婦の個人的な友人たちだろう。ざわ、と空気がうごめき、若い男たちの集団が二つ同時にエスコートに殺到した。その姿に思わず笑ってしまう。
客の大半は田垣にもなじみの深いスーツ姿だったが、あきらかにブルーカラーとわかる一団も同じくらいいた。後藤の話によれば、学生時代に両親を失ってから肉体労働のバイトはかなりやって、友人もたくさんいるのだそうだ。そのあたりかもしれない。彼の部下たちとは反目しあいながらも和気藹々とやっているようだった。そこからも新郎の人柄がわかる気がする。
「六時くらいまでは閑古鳥かと思っていたんですけどね。――これサービスです」
目の前にミックスナッツの皿を置いて後藤が笑った。そして花嫁を呼び寄せると紹介した。花嫁も同じ会社の人間だという話を聞いていた。彼女にとっては初めて見る役員という人種だったろう。いくぶん緊張したようにぺこりと頭を下げる姿はかわいらしい。
新しい一団への飲み物を用意し終えてまた田垣の前にやってきた後藤がすっと真剣なまなざしになった。
「ところで専務、今の迷宮街の責任者の榊原さんという方のことですけど」
「こんな日にまで仕事の話はいいだろう」
「いえ、仕事の時間を使って訊くほどのことでもありませんから。経歴を見ましたけど、決して無能な方ではありませんね。怠け心を出したとも思えないし。どういう方かご存知ですか?」
「私の印象を知ってどうするつもりだ?」
「気構えの問題ですね。常識的に考えても難しい交渉になるってことは想像ができてます。でも、榊原さんがどうして何の手も打とうとしていないのかが気になっているんです。あまりに困難な交渉にさじを投げたのか、事実上の独占を失うことを恐れたのか、あるいは利益をあげているのは確かなことだと怠け心を出したのか」
声を潜める。
「あるいは脅されているのか」
「そうだとしたら行きたくないか?」
「逆です」
即答だった。
「積極的に関わってくるのであれば却って楽ですよ。相手に交渉の意思があるってことですから。問題なのは攻め口がなくそれでいて頑固な相手です」
頼もしい笑いに田垣はうなずいた。確かにこの人相が相手ならどんな脅しも尻すぼみに消えていくだろう。
「最後に会ったのは今年の夏だが、脅されているほど弱ってもいないようだったな。投げ出したようにも見えなかった。そう、信念あってあの利益率をキープしているような感じだった。だからお前に任せるんだ。いつから行く?」
「来週中には。とりあえず試験を受けてみようかと思っています。最近、久しぶりに運動していますよ」
そして笑った。
「でも、今日がいちばん体力的にきついですね。店を開けて二時間、もう座り込みたいんです、実は」