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迷宮街のはずれに誰かが作ったベンチを見つけた。立ち枯れていたクヌギをそのまま組んだのだろうか、風雨と陽光によって磨かれたそれはとてもいい雰囲気をかもし出していた。とはいえ当初はそのベンチをスケッチのための椅子として使おうと考えていたのだが、すぐにお尻がむずむずしてくるような気分になってきた。
――まずはこれを描こう。
自分の筆力で、このベンチの味と生みの親に対する仲間意識を描けるかどうかわからないけれど。ともあれ今日の被写体に出会ってしまったのだから、今日はこれ以外のことは手につかないだろうとわかった。今泉博(いまいずみ ひろし)は折りたたみ椅子を広げた。
少しずつ色をつけ始めたとき、背後で突然声がした。「面白いもの描いてるな」と。突然のことだったので驚きの声をあげてしまう。すまんすまん、と申し訳なさそうな声に振り向いた。こんにちは津差さんと相手の名前を呼んだ。
巨大な男だった。日本人男性の平均身長を大きく超えた身長に、決してひょろりとした印象を与えないだけの筋肉が乗っている。その腕は今泉の脚よりも太く、首は胴回りと同じくらいあった。今泉と同じく第二期の探索者で、理事の娘を別格とすれば自他ともに第二期最強と認める戦士だと言われていた。黒いタートルネックのセーター、スラックス、ロングコートはすべて特注だろう。男くさい笑みを今泉に向けてから、じっと絵を覗き込んだ。そして「なんかいいことあったか?」と訊いてくる。突然何事だろう。
「どうしてですか?」
空の色が、今までと違うとの返答。うなずいた。
「ああ、今日は白絵の具を使わないで明度を出す練習してるんです。必然的に、暗い色の明度を落として引き立たせるようになるからそれででしょうね。うーん、まったく同じような印象を与えるようにするつもりだったんだけど」
まだまだ修行が足りません、との苦笑いを見つめる顔は真剣なようだった。
「なあ、絵描きってのは食っていけるのか?」
意外な質問にその顔を見つめる。
「唐突ですね…・…。僕はまだ美大に入るだけで頭が一杯だからよく調べていませんけど、イラストレーターや挿絵描きや、きちんと仕事はあるみたいですよね。でも、絵を通して表現した自分というもので食べていける人はやっぱり一握りじゃないでしょうか」
同じく絵を描くのでも、誰かに頼まれて要求されたものを描くのと、自分自信の内面から生まれてくるものに値段がつくのでは大きな差があると今泉は信じていた。漠然と、もしイラスト描きなどの仕事しか得られなくても、いつかきっと、という気持ちを失わず自分を表現するための絵は描きつづけようと決心していた。
「いや、絵じゃないんだが…・…詩なんかは食っていけるものなのか?」
「し? 詩? ポエムですか?」
うなずく。
「それはもう畑が違いますからちょっと。ごめんなさい。でも、絵よりさらに厳しい世界のような――内藤さんですか?」
彼らの部隊の魔法使い、内藤海(ないとう うみ)とは年も近いことがあって親しくしていた。彼がこの街にやってきた動機は「詩想を得るため」だという。文芸活動は絵描きのように周囲が見てわかるものでもないから、なんとなく忘れてしまっていたのだが。
「ああ。例えば今泉くんにはとにかく美大に入ろうという目的があるよな。それは、美大に行くことで将来食っていける可能性が高まるからじゃないのか?」
考える。――自分が美大に行きたいのは、独学では超えられない壁があると思ったからだし同じ年代で同じ夢を持つ人間と出会って刺激を受けたいからだ。それはつまり、もっと深く絵の世界に進みたいということになるのだろうか。眉を寄せながらもうなずいた。
「そうかもしれません。少なくとも、目標になっているのはそうです。ただ、僕の場合は手段もある程度目的化されていますけど」
「あいつはここで何をして、これから何をしたいんだろう」
確かに「詩想を得る」というのは漠然としすぎていた。それは、津差のようにまじめな性格の人間には理解できにくいものなのだろう。そして改めて考えた。この街にいる探索者も、いろいろいるのだなと。自分のように金を稼ぐための手段と割り切っている人間、例えばロッククライミングをして過ごすために来ている男とか、夜学に通うお金を捻出している男とか、親の借金を返すために来ている男とか、車の趣味に金をつぎこみたい女とかがいる。彼らはシンプルで目的もはっきりしている。でも大半は、なんとなく(もちろん彼らの中にはきちんとした目的があるのだろうが、それは外からはうかがえないものだった)この街にいて日々を過ごしているように見える。でもそれを言うなら、目の前の男と内藤は同じくくりのはずだ――が、どうも違う。
「内藤さんがそうだとは言いませんけど」
慎重に言葉を選ぶ。
「なんとなく、いつ死んでもいいやという気持ちでいる人がこの街には多い気がします。いつ死んでもかまわないから、それまでの生活を楽しく過ごそうという姿勢の人」
一晩数万円の部屋を占拠し、艶聞途絶えることのない女戦士を思い浮かべた。彼女には――強靭な肉体と健全な常識と一緒に――どことなく退廃的な雰囲気があるような気が常々していた。でも、それは他の人間が気にすることじゃないと思いますけど、と恐る恐る異議を唱えると津差は辛そうにうなずいた。
「もちろん俺だって他人のことを気に病みたくないけどね。でも、もしそういう投げやりな気持ちがどこかに混じっているのだったら、それがいつか危険を呼ぶんじゃないかと心配で。魔法使いはなんといっても生命線だから」
それきり黙りこんだので再び絵筆を走らせた。そういえば、彼の部隊の鈴木秀美(すずき ひでみ)はどれにも分類できないなと思いながら。