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自分の女運は最悪だったな、と今泉博(いまいずみ ひろし)は昔を思い出していた。思い出は女性の顔をしていた。それらは一つではなく表情もさまざまだったが、すべてに共通するものがあった。自分を見つめるときの、隠そうともしない侮蔑の色がそれだ。
県内最高の進学校の入学式会場で、彼の心は希望に満ちていた。中学校時代の恩師が信じるほどには自分の画才を確信できず、いい成績を取って定職につくという人生設計も残しておきたかった彼にとっては最高の選択肢だと思ったからだ。何もなかった中学時代でも、先生と二人で美術クラブを作り後輩もできた。コンクールでも入賞した。高校生になって自分は少し頭がよくなり、少し行動力が増した。勉強と絵の両立は難しくなく達成できるだろう…・…。
その意気を砕いたのは幼稚な、それだけに強力な悪意だった。衆に優れて整った容姿を妬んだ同級生の一人が彼を屈服させようとし、他の男達も同調したのだ。形だけ従って見せるには彼は強すぎ、かといって打ち倒すには弱すぎたのだろう。三ヶ月でその学校に絶望していた。どうしてその時恩師に相談しなかったのか――何度も後悔したことだ。しかし当時はできなかったのだ。男の見栄は勇気の材料になるものだったが、身を縛る鎖にもなるものなのだ。
学校を辞めた。親と話し合うこともせず、家からも出た。今になってみればすべてが逃げだったのだとわかる。逃げこんだ世界は高校生活よりも自分に無関心で居心地はよかった。しかし高校中退の人間が一人で生きていくのはつらい。彼は女性に養ってもらう道を選んだ。高校から彼を追い出した容姿が今度は彼を救ったことになる。
生活の面倒を見てもらいながら喫茶店でウェイターのアルバイトをはじめた。バイト代はすべて画材につぎ込んだ。ウェイターとして暮らすうちに、寂しさを紛らわす愛玩物を欲している女性を見分けられるようになった。そうして幾人もの女性のもとを渡り歩いた。
女運がいいとは言えない。一八歳という年齢になっても彼は恋を知らなかった。中学時代は年上の教師に対する憧れでいっぱいでクラスメートは視界に入らなかったし、その教師がいなくなったと思ったら、単なるペットに成り下がっていたのだから。彼を養う女性たちは彼に依存していたが支えにはしていなかった。関係は常に、彼が逃げ出すか突然捨てられるかで破綻した。
一八歳になるのを待って迷宮街にやってきた。絵を続けるためには安定した収入が必要だと痛感していたからだ。高校卒業の資格もない人間が手っ取り早く大金を稼ぐ方法としては他に思い浮かばなかった。そこで二人の女性に会った。一人は再会だったが。ようやく最悪の女運も終わりだな、とまさに昨夜、晴れ晴れとした気持ちになったところだった。
彼女は無事に地上にたどり着いただろうか――すでに三時間以上が経過しており、ついに二人とも滑落してこなかった。当然地上にはもう連絡がついているところだろう。一秒ごとに生き延びる可能性が増していくのを感じる。
小野寺正(おのでら ただし)が声を潜めて言った。移動するぞ、と。
(どうしてですか?)
小声で訊き返した。先ほどタランチュラを撃退して移動してから何度も近くを化け物たちが通りがかったがいまだに知られていなかった。今いるのはよい隠れ場所ということではないのか。
(恩田くんが死んでいる)
驚きの声を努力して押し殺す。何かと出会ったわけでもないのに――。
おそらく毒気だろうな、と八束忍(やつか しのぶ)はつぶやいた。毒気にあてられたらどうなるのか、俺たちは知らなかった。だから恩田くんも気づかなかったんだ。
それよりも、と小野寺は身を起こした。死んでからもう一時間以上が経っている。こんな寒い場所だから大丈夫だと思っていたが、死体の筋肉が緩みだした。体内の糞尿が流れ出しているんだ。その匂いで見つかってしまう。
先ほど移動した際に各人小便は済ましていた。そのアンモニア臭は確かに迷宮内では目立つらしく、徘徊する化け物たちも一様に嗅ぎに行っているのを目撃した。死体の括約筋などがゆるむことによって体内に残っていた大小便を流すことはよく知られている。恩田の死体でそれが始まった以上、すぐにでも動かなければならなかった。そろりと身を起こした。
そして八束が悲鳴をあげた。そちらを振り向くと同時にヘッドライトの電源をつける。キャン、と声をあげて大型犬くらいの大きさの動物が闇の中に逃げていった。ランタンのスイッチを入れ、窓を全開に開くとこちらに向けて身構えている生き物の姿が照らし出された。突然の強烈な光にたじろいでいる。
「八束さん!」
振り向いた向こうで、魔法使いは首筋を抑えてしゃがみこんでいた。噛み破られたのか、手のひらの下から赤い血が流れ出している。小野寺が悲鳴をあげた。見れば灰色の剛毛に包まれた剣士が彼に切りかかっていた。刀身は小野寺の左肩をえぐっている。ここまで耐えたのに! 脳裏にいくつかのイメージを描いた。
今泉に飛びかかろうと、後ろ肢をたわめた動物がそのまま突っ伏した。治療術を応用したもので、一時的に脊髄にあたる部分を阻害して行動できなくするものだった。状況を瞬時に把握した。正式名称をコヨーテと呼ばれ通称は山犬と呼ばれる動物が三匹、正式名称をワーラットと呼ばれネズミ男と通称される剣士が二匹だった。ネズミ男は二匹がかりで小野寺を攻めている。どうやら今泉の治療術で三匹の山犬は動きを止められたようだった。あとは剣士二匹。もういちど同じイメージを脳裏に描こうとして肩に激痛が走った。首を捻じ曲げると、緑色に光る山犬の瞳がそこにあった。
彼らは包囲されていたのだ。地面に引きずり倒された。前足が胸の上に置かれ、山犬が彼を見下ろして唸る。半開きの口から生臭いよだれが彼のツナギを汚していった。
甲高い声がネズミ男の片方から発せられた。視線だけ動かすと、うずくまった小野寺の身体の向こうでネズミ男たちがこちらを見ていた。すぐには襲い掛かってこないようだった。突然理解した。彼も実家に住んでいた頃に犬を飼っていたからわかるのだ。餌を目の前にしてどれだけ飼い犬に我慢させられるか、しつけを示す基準として「お預け」「待て」というものがあるのだと。ネズミ男たちは飼っている山犬にそれを命じている。勝利を確信した彼らは自分のしつけの成果を競い合っているのだった。
毛むくじゃらの動物たちが顔を見合わせて笑ったようだった。片方が誇り、片方が感心しているようにも見える。
そうだ、もっと長引かせろ。今泉は不思議と冴えた頭で思った。自分の飼い主としてのしつけをせいぜい誇るといい。
もう三時間経過している。助けはすぐそこまで来ているのだ。