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カーテンを開けようと立ち上がった足腰がふらつく。今日は本格的に荷造りをする日ということで、昨夜の酒はほどほどにするつもりだった。北酒場で非探索者の友人たちが開いてくれた送別会においてもそれはしっかりと守られた。その後「すこし話しましょうよ!」ということでコンビニ勤務の織田彩(おりた あや)と買取担当の技術者の三峰えりか(みつみね えりか)とを家に(小林は他の住人のように2LDKをシェアせず、二部屋をすべて一人で占拠していた)招いたことがそもそもの過ちだったのだろうか? それともバーテンからのプレゼントと言いながらズブロッカを取り出した織田を責めていいのだろうか? わかることは現在はもう九時半であり、当初の予定では本と雑誌は全て梱包が終わっているはずの時間だったということだ。梱包どころか大量のファッション誌が二つの死体とともに散らばっていた。一冊を取り上げる。2002年という日付をみてぎょっとした。その日付にあたる雑誌類は既に梱包できていたはずではなかったか? おそるおそる寝室として使っていた部屋に行くと、すでに作られていた二つのダンボール箱が開け放たれ、雑誌とビニールひもが部屋中にちらばっていた。へたりこみたくなった。起きろと二つの死体に声をかけてから顔を洗おうと洗面所に向かう。部屋の方で盛大なくしゃみの音がした。
「あー!」
織田の声が寝室の方から聞こえる。顔にタオルを押し当てながら何事かと訊いてみた。
「この絵、いいですね! 小林さんが描いたんですか?」
ああ、と納得する。昨日、もと教え子の画材を借りて描いたものだった。ポプラ並木の向こうには建物の群れ、自分が住むアパートもある。そして背後にそびえる比叡山。昨日だけではいまひとつ納得できず、今日完成させてから彼にあげようと思っていた。絵のたしなみがある自分でも出来がいいと思えるものだったから、素人の彼女の目には立派に映るのだろう。
まだ未完成だけどね、そう答えると私にくださいと即座に返ってきた。うーん、と悩む。明るくてやさしいこの年下の娘にはずっと親しくしてもらい、彼女が心に傷を負ったあとも何くれとなく気を使ってもらっていた。迷宮街を去る直前にしてようやく思い出せた、この街に対する暖かい想い。それをうまく表現できたこの絵はどちらかといえばこの娘にこそもらって欲しい気持ちはあった。しかし約束は約束だ。事情を話して断ると、仕方ないですねと笑った。
「まあその代わりにさ、今日一日荷造りを手伝ってくれていいよ。まずはその散らばってる雑誌とか」
女子大生はきょとんとして、吹き出した。
「代わりにて。それ日本語ですか? でもお手伝いします」
東北に嫁に行く女と京都で大学に通う女、普通に考えれば今後会うことはほとんどないだろう。一緒にいられる時間は一秒でも貴重だった。