09:32

…・…保持したはずの岩が根元から外れた。バランスを取り戻そうと伸ばした腕が、逆に距離感を失って壁面を押してしまう。自分は落下するのだ、と西野太一(にしの たいち)は落ち着いて考えた。墜落の浮遊感は何度経験してもいい気分のものじゃない。自分の身体をささえるザイルが伸びきり、壁の金具を支点にして止まる瞬間の衝撃を思って覚悟を決めた。金具が折れた。
――墜落する?
やたらとゆっくりと動く世界、その中で金具の円環の部分だけが通常の重力をもって自分に向かってくるような気がした。ついに自分にも訪れることになった死を、その金具が連れてくるような気がした。
身体が強く殴られた。落下方向が修正され、腰骨が壁面の突起にあたったことを感じた。無意識に両手両足が動き、その突起をホールドする。そのまま突起の上に這い上がる。先ほど小休止に使ったそこは、三人が座れるだけのスペースがあった。
途端に身体が震えた。すでに腰の下には平たい岩があったのだが、それでも両手両足が取っ掛かりをもとめてさまよった。
「タバコ吸えーっ!」
誰かの声が西野の心を支配する。呆然としながらジャケットのポケットを探り、タバコと携帯灰皿を取り出した。なんとか火をつけて大きく吸い込む。震えが嘘のように引いていった。そして、入れ替わりにもう一度、今度は小刻みな震えが全身を襲った。西野にはわかった。先ほどの震えは事態が理解できない混乱によるもの。今度は死の恐怖によるもの。先ほどは逃げるためのもの。今度は生きるためのもの。
生きている。まだ生きられる。西野は上の仲間たちを見上げて大丈夫だと怒鳴った…・…。


我に返った。昔のことを思い出してしまったようだ。ロッククライミングをはじめた最初の頃のできごと。落下しかけた身体を殴って軌道を変えてくれた先輩、とっさに岩盤をキープできた幸運、タバコを吸わせることで混乱から回復させてくれた仲間、一つ欠けても命がなかったその状況をくぐってきたことで、西野は不可避な死などないことを知った。死は向こうからやってくるのではなく、あきらめた人間が作り出すのだと。
ここは、と状況を再確認する。ここは迷宮の第四層。強制移動させる罠(第二層では初めての例だった)のために第二層から飛ばされてきたのだ。そこで円陣をつくり相談している最中だった。西野は面々の顔を眺め回した。恩田信吾(おんだ しんご)は途方にくれ、小野寺正(おのでら ただし)と八束忍(やつか しのぶ)は同じ方向をにらんでいた。そこには涙で目を真っ赤にしながらそれでも顔を覆わずうつむいている鈴木秀美(すずき ひでみ)とそのそばに寄り添っている今泉博(いまいずみ ひろし)がいる。とりあえずは、と泣いている娘をにらんでいる男たちの頭を殴りつけた。
「これから厳しくなるってのになーに秀美ちゃんいじめてんだお前らは」
でもこんなことになったのは、と反論する小野寺の襟首をつかみ、引き寄せる。
「こんなこと? どんなことだ。まだ誰も怪我してないし、魔法使いたちもほとんど余力を残してる。最悪には程遠いだろ」
何か、いい考えでも? 恩田の質問に対し西野はツナギのポケットから地図を取り出した。現在解明されている第一層から第四層までを綴じたものだ。八束忍に現在地を指し示させた。
「まあ可能性にしか過ぎないけど――あそこ見ろ」
ヘッドライトを向けた先は天井の一角だった。かろうじて光を反射する洞窟の上壁が、そこだけうがたれているようだった。光が届いていないようにも見える。
「あれが何か?」
落ち着いている今泉の声。大したものだと見直した。
「第一層の濃霧地帯の奥にあったでっかい穴を覚えているか? 垂直だから下に降りられず、放置してある奴だ」
ずっと第一層を探索していた者たちである。みな頷いた。
「いまあそこに見える天井の穴、あれは第一層の穴と同じ位置なんじゃないか? 八束」
魔法使いはしばらく考えて、そうかもしれませんとうなずいた。
「西野さん、まさか――」
恩田にうなずいてみせる。
「第一層の穴は確実に第二層まで続いている。あれは確実に第三層から降りてきている。だったら、第一層から第四層までぶちぬきのたて穴である可能性は低くないと思う――あそこを登ってみたい」
皆は戸惑ったように顔を見あわせた。そうはいっても、垂直の壁を登るなんて出来そうにないと今泉が代表する。
「俺ならできる。命綱はないが、これだけゴツゴツした壁面なら必要ない。でもお前たちじゃムリだろう。なんといっても真城雪や笠置町翠でも初挑戦じゃ失敗するんだからな。だから、俺だけ地上に出て救援を呼びたい」
皆がじっと自分の顔を見る。その顔にはもう恐怖はあっても混乱はない。
「地上に出て、長い縄梯子と金具を用意する。金具を第一層に固定してそこから縄梯子を垂らす。第一層までせいぜい30メートル程度だ。準備を整えるのにも時間はかからない。俺がこの壁を攀じ登るのに一時間、濃霧地帯を越えて地上に出るのに一時間、準備で一時間、穴のふちまでたどり着くのに一時間だ。四時間、身を潜めて待っていてほしい。――できるか」
全員の視線が恩田に集まった。恩田はじっと西野の目を見てからうなずいた。お願いします西野さん、と。そこで小野寺が声をあげた。
「でも、濃霧地帯から地上まで確実に化け物に出会うでしょう」
「駆け抜ける」
西野の言葉は短く断固としていた。黙り込んだ小野寺の代わりにあの、と小さな声がした。鈴木だった。
「私も行かせてください」
驚く今泉の、全員の顔。それらを見ながら西野はこの娘が壁面にとりついている様子を頭に思い描いた。なぜだかそこに失敗のイメージは描かれなかった。困惑して恩田の顔を見る。恩田も同じ表情で自分を見つめていた。
「…・…自信があるの?」 おそるおそる、という八束の声。無条件に否定するわけでもない。そうか、と西野は理解した。仲間たちはみな、自分がそうであるように、この娘に対して得体の知れない何かを感じ取っていたのだ。だからその申し出を問題外と却下できない。
「あります」
頼もう、と恩田が言った。今泉が心配そうな顔で鈴木の横顔を見つめている。今年まだ18才、西野と同じ干支の娘は青白い真剣な顔で迷宮の上壁を見つめていた。