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ふううううううと息を吐く声が聞こえる。なんとなしに妻のその声を耳に留めながら、笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)は目の前の男のコップに焼酎を注いだ。彼は奥島幸一(おくしま こういち)という名で、笠置町夫婦と同じく政府から月10万円の助成金とともに緊急事態への即応を依頼されている『人類の剣』だった。穏やかな顔からは想像もつかない剣の達人で、四つ奥島が年上で、ずっと剣の腕を競ってきたものの一度だって勝ったことがない。もし奥島と喧嘩するようなことになったら切り合いはあきらめ、一目散に逃げるか魔法で勝負するしかないと思っている。
ここは広島県は宮島。迷宮での今年最後の探索を終えてからこの島で民宿を営む知人を訪ねたのである。
ふううううと相変わらず続く声に、妻が軟体になって崩れていくのではないかと無気味な想像が頭をよぎり、マッサージチェアを振り向いた。溶けもせず妻はそこにいたが、ふっと隆盛は違和感を感じた。
「茜、おまえ少し太ったか?」
少しどころじゃないわよ、とけらけらと笑う顔はアルコールで真っ赤になっていた。この二日で二キロ太っちゃった。出てくるもの全部おいしいんだもの。奥島さんは料理の腕でもあなたに完勝だわよ。開き直られて憮然とする隆盛に、奥島が笑って焼酎のビンを差し出した。
私、太る体質なのよね。あの子たちも絶対太るわ。常盤くんも真壁くんもそんなこと想像もしてないでしょうけど。
まだあいつらが翠や葵とどうこうなるって決まったわけじゃない。むっつりとつぶやいた。もちろん若い頃にきちんとさまざまな経験をしている隆盛はわかっているのだ。娘二人がそれぞれ隣に座った男たちに好意を抱いているということは。しかし「わかる」と「認める」には大きな隔たりがあるのだった。それが「心地よく受け入れる」になったら接点すら見つからない。
そうは言ってもなあ、タカよ。奥島が笑った。彼は一姫二太郎。二九歳になる姉は助成金ももらっている『人類の剣』だったものの、子どもの世話が忙しくて迷宮街には関わっていなかった。娘なんてえのは、父親が惜しいと思ううちに嫁に出しちゃった方が結果的には後悔がないもんだぞ。そうよー、と茜が賛成した。ぶすっとして小魚の佃煮をつまんだ。
「それはそうと」
茜が声をあげた。
「奥島さん、ふとした時に遠州を感じることない? 遠州の孫弟子だったよね?」
遠州を? と奥島は眉根を寄せた。遠州とはある老人の名で、剣術から魔法まで心得を持ち諸国を漫遊しては『人類の剣』を育て上げた伝説の男だった。隆盛は会ったことはないが、たとえば茜は直弟子にあたるし目の前の男は本人の言うように孫弟子である。訓練場の橋本という戦士も弟子だったはずだ。
「・・・確かにな、けれどあの老人は人間というよりは化け物の類だ。もう死んで二〇年経ったか? それくらいじゃ消えないような残り香があってもおかしかないだろう。何しろ遠州だからな」
そうかもね、と茜はつぶやいた。
「というよりも、迷宮街にいたからじゃないのか? あの街の戦士たちは橋本くんを見ているわけだから、大なり小なり孫弟子だと思ってもいいのではないか?」
そうかな、そうなんだろうね、と妻はつぶやいた。腑に落ちていない声だった。