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前に打ち合ったのはたしか先週の半ばだったはずだと思い当たり、進藤典範(しんどう のりひろ)の背中に冷たいものが走った。その時にもとてもかなう気がしなかった巨人は、今はもうなんだか別のひどく遠いものになってしまったような気がする。訓練用の木剣は並外れた体格の二人には軽すぎて型を確認するように打ち合うだけだったが、呼吸を合わせてゆっくりと打ち合うその剣筋が先週よりも格段に厳しくなっている。この戦士は――と向かい合う津差龍一郎(つさ りゅういちろう)の汗一つかかない顔を畏れをこめて見つめる――恐ろしいのは、これほどの肉体的な素質に恵まれながらなお研鑚を惜しまない一点だった。なんと彼は部隊を掛け持ちするたった一人の戦士になってしまった。最精鋭の部隊で極限に挑み、そこで得た教訓をもとにそれより穏やかな階層で修正する。戦士にとっては理想的な鍛錬の方法だが心身ともにはげしい緊張にさらされるためやろうと想像したものすらいない。この巨人にしてそれに挑むのは果たして無謀か否か、いや、この男ならやり遂げそうな気がしてならない。
軽いはずの木剣の衝撃が腰に響く。負けじと少しだけ速めに繰り出した一撃は、木剣の腹を篭手の金具ではじくことでいなされた。唖然とし、なんだかしょんぼりして一歩跳び退ってかわすと、姿勢を低くしてその腹に肩から突っ込んだ。遠くで歓声が聞こえ疑問に思う。一方で津差はといえば、一八五センチ九二キロのタックルはさすがにこたえたらしく右足を一歩引いて衝撃を受け止めた。だがそれだけだ。
「あーもう腹立つな! 畜生!」
却ってすがすがしく笑ってタオルと水のところに歩いていく。いやいや進藤もかなりいい線いってるって、という巨人ののんびりとしたフォローに苦笑しながらペットボトルをとりあげ、口をつけた。京見峠というところで湧き出てくる水をわざわざ汲みに行った冷水は、運動に渇いた喉には柔らかく甘い。自分のボトルには目もくれず手を差し伸べる津差に渡した視界がその背後に不思議なものを捕らえた。
学校の体育館を思わせる訓練場には入り口のほかにも外への出入り口がある。そこに明らかに探索者ではない若い女性がへばりついていた。五〜六人はいるだろうか。他の出入り口にも幾人かずつへばりついている。二人の視線を受けた一団が嬉しそうにどよめいた。
「なんだかファンの子らしいぞ」
津差は興味なさげに答えた。ファン? 誰の?
俺たちのじゃないだろうな、という言葉にそりゃそうだとうなずきながら、ほぼ習性に近い動きで一人一人の顔を見定めていく。お、と思う。結構好みの子がいるじゃないか。でも誰のファンなのだろう? 黒田聡(くろだ さとし)だろうか? 湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)は普段こっちには来ないし・・・。
誰かのファンであるところの女性たちが大きくざわめいた。ゆーきさーん、という声が聞こえてくる。ゆーき? 野村悠樹(のむら ゆうき)? 剣術よりも空手が得意なぱっと見たところ長距離トラック運転手としか思えないあの男? いやまさかと視線をめぐらせそしてその人物が視界に入った。身長一七〇センチすこしでほっそりした体格、白と黒のシマウマ模様のツナギを身につけた女性はその声があがるたびに困ったように手を振りながら歩いてくる。なるほど「雪さん」かと納得した。
「ねえこれは何事なの?」
真城雪(ましろ ゆき)は二人に訊いた。テレビの放映でファンができたんでしょう、と津差の答えになるほどと納得した。確かに女帝はかなり長い時間映っていたし、その精悍な美貌は登場した探索者の中で際立っていた。それでもわざわざ貴重な土曜日をこんなところに来るかねえ? 進藤には理解できない。女帝も苦笑して、今度はサービスを込めて手を振っている。先ほどより大きな歓声があがった。
ふと思った。同じく美貌が際立っていた一人の少年、彼を見るためにやってきた人間もいるのだろうかと。はるばる地下鉄の最終駅までやってきてお目当てが既に死んでいると知ったらどう感じるのだろうと。嫌な気分がして頭を振った。
とにかく、せっかくだから誰か声をかけてみることにしよう。