19:17

「座れたー!」
早速にかばんの中から紙袋を取り出した。中にはお土産に持たされたクッキーが入っている。
「みんないい人だった! 重ね重ねお礼を言っておいてね!」
笠置町翠(かさぎまち みどり)は、隣りに座った真壁啓一(まかべ けいいち)に笑いかけた。彼女は先ほどまで、彼の友人たちに東京を案内してもらっていたのだった。
ことの起こりは昨夜にさかのぼる。新宿三丁目にある中華料理屋、真壁の行きつけの店で再会を祝しているところに翠から電話が入ったのだ。短いが深い付き合いをしている真壁には、その明るさが常とは違う虚勢であることがよくわかった。そこで恐る恐る同席の友人たちに伺いを立てたところ快いイエスが返ってきて、急遽彼女を祝いの席に呼び寄せたということだった。
もともと人付き合いのいいほうではないと思っていた翠だったがなぜかその晩は陽気だった。迷宮街では一度も見かけたことのないスカート姿、気合の入った化粧は真壁の友人たちも魅了したらしく、真壁が男友達と馬鹿笑いをしているうちに気が付いたら女たちと意気投合していた。その流れのまま今日は女友達に連れられて東京ディズニーシーに行ってきたそうだ。
「あー、楽しかった! 木村さんと奥野さんは今度京都に来るって! 案内する場所探しておかないと」
「楽しかったようで何よりです、姫」
一方真壁は男友達の一人、二木克巳(にき かつみ)の家に男だけでなだれ込み、先ほど翠からの電話で目をさましたという体たらくだった。
「二木さんもいい人だね」
ああ、と頬をなでながらうなずく。心から同意する。
「その頬の跡は二木さん?」
翠の顔を見る。さすがにこの娘は気づいたらしい。
「うん」
「由加里さんに会おうとしなかったから?」
うなずいた。
幹事役の二木は集合時間を過ぎても現れなかった。話を聞けば、ぎりぎりまで真壁の恋人である神野由加里(じんの ゆかり)の居所を探していたのだそうだ。しかし結局見つからず、おそらく男だけで飲んだ時にその悔しさをぶつけたのだろう。
「由加里さん、木村さんの家にいたんだって」
「――そうか」
「二木さんは善意で動いているんだろうけど、やっぱり二人の問題だから、って言ってたよ」
真壁はうなずいた。木村ことは(きむら ことは)は同じゼミだったが二浪して彼より二歳の年長になる。男女のことに関しては百戦錬磨、という印象があった。彼女の目には彼ら三人の姿は幼く見えるのだろう。
「克己は由加里のことが好きなんだよ」
由加里には一目ぼれだった。ゼミの初顔合わせの飲み会の場、偶然席が前後した彼女に真壁は何も話せなかった。置物の類のように彼女の言葉に受け答えしながら、何度もビールを空にした。前後不覚になった真壁が目を覚ましたのは二木の家で、そこで由加里のことを根堀り葉堀り尋ねたのだった。二木は彼女と同じ高校だった。
二木の仲介もあり二人の間は急速に親密になっていった。もともと穏やかで受動的な彼女を虚仮の一念で押し通したような面もあった。幸せな大学生活だったと思う。彼女と一時でも一緒にいられたそれだけで自分の人生の収支はプラスになる、と思えるほどに。
迷宮街に旅立とうと思ったとき、「待っていてくれ」と言えなかったのはなぜだろうか。それは惚れて熱意で口説き落とした相手に対してついに愛されているという自信がもてなかったということもあるだろうが、それに加えて二木の存在があった。
親友が恋人に対して抱いていた思いを察することができたのは交際が始まって半年後のことだ。色恋沙汰は木村さんに訊いてみようと尋ねたら、あきれた顔で気づかなかったのかと言われた。自分よりも容姿も人受けも、何より将来の安定性もある男――それでも由加里のすぐそばにいられる時は不安も感じなかったが、こうして離れてみると感じずに入られないのだ。自分よりもこの男といる方が、恋人にとっては幸せではないのか? と。
今回、二木が由加里を必死になって探した理由がわかる気がする。二木は二木で自然な気持ちと守るべき友情の間で揺れているのだろう。その結果、酔っ払いの安い挑発をやり過ごせずに、彼は生まれて初めて人を殴った。
「俺と一緒にいるより、二木と一緒のほうがどれだけ幸せかわからない。そう思わないか?」
「うん。そう見えるね」
翠の返事はそっけなかった。
「でもそれは真壁さんが考えてるだけでしょ。由加里さんがどう感じるか、真壁さんにわかる?」
「いや、けど、普通に――」
「普通!? 普通て!」
翠はおかしくて、悲しくてたまらない、という顔で覗き込んだ。
「明日死ぬかもしれない場所にわざわざやってくるような人が、普通を他人に押し付ける? だいたい真壁さん、由加里さんを馬鹿にしてるよ。一人の女の幸せ勝手に決め付けて、相手の言い分も聞かずに身を引くってさ。そりゃ顔も見たくないわけだわ」
違う、と真壁は思った。俺は幸せを考えて思いやって動いたのではなく――
「自分がごちゃごちゃ考えてるみたいに、相手もいろいろ考えて精一杯判断してるんだよ。戦地に出稼ぎに行く男を待てないんだったらバイバイするくらいは誰でも決断できるよ。されない限り真壁さんは恋人面してりゃいいんだよ。まだ好きならね」
思いやって動いたのではなく――恐れたのだ。彼女に捨てられるのを。捨てられるくらいなら身を引こう。自分が納得していると思い込もう。そんな逃げの心の動きが確かにあった。
「――どうしろと?」
「知らないよ。したいようにするしかないでしょ。無理なら――」
翠の顔に鋭い痛み。そう言えば、彼女は誰か親戚を訪ねていったのではなかったか。その親戚についての会話がまったくないことに唐突に思い至った。
「相手が突き放してくれるから」
「お茶買ってくる」
真壁は立ち上がった。