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かぶとの類を身につけている相手には決して大上段で切りかかってはいけない。かぶとは衝撃を受けとめるためではなく流すために作られている防具であり、振りおろした剣が逸らされたら一秒は無防備になってしまうから。訓練場の橋本辰(はしもと たつ)に何度も言われたことだったが、越谷健二(こしがや けんじ)がその警告を思い出したのは実際に振り下ろし始めた刹那だった。慢心があったのではない、と思う。一年以上死線を潜り抜けてきた勘が大丈夫だと教えてくれたのだ。
第四層である。このあたりでは探索者は、明らかに文明化された二足歩行の化け物に多数出会う。もちろんそれは人間とはまったく別種の生き物だった。日の光に慣れていないためか色素の薄い瞳、この低温下でも自在に動くために密度濃く皮膚を覆う産毛、人間のように呼吸器(鼻腔)と食料摂取器(食道)が併用されていないのか、鎖骨あたりにあるエラ状の隙間で呼吸をしている外見からして違う。それでも顔に表情が浮かぶ点(それはつまり、彼らの中で個体の識別は状態の伝達を顔によって行っていることを示していた)や二本足で歩く点、彼らなりに洗練された武器防具を身につけている点などは非常に酷似していた。
探索者の基本四職業が戦士、罠解除師、治療術師、魔法使いであるように、地下に文明を築いている彼らのうちでも実際に探索者が出会うものはその四種のいずれかに大別できるようだった。つまり、彼らの中での戦士階級なのだろう。探索者が人間社会においてほんの一つまみに過ぎないように、彼らの背後には非戦闘階級の生き物で作られた巨大な社会があるに違いない。戦士はその武装によって、罠解除師はエーテルをたくみにあやつり目くらましや不意の過重や地面を滑りやすくすることによって、魔法使いは魔法によって、治療術師は仲間を回復させることによって探索者の行く手を阻んでいる。越谷の目の前にいるのもその一種類で戦士にあたり、円筒形のかぶとをかぶったものだった。ちなみに、こういった明らかに人型の生き物に対してはいちいち通称をつけてはいない。
自信と不安と同時に乗せた鉄剣は、敵戦士の受け流そうとした首の傾きを歯牙にもかけていないようにその頭部を粉砕した。半ば以上予想通りとはいえ、自分の手に戻ってくる反動とその結果とのあまりのギャップに驚いた。
その一撃で戦闘は終結したようだった。敵戦士が連れていた巨大な野犬たちは、彼らの仲間の緑川浩一郎(みどりかわ こういちろう)がその魔法で(いつもどおり、毛先ほどの表情のゆれも見せず)焼き尽くしていた。リーダーの星野幸樹(ほしの こうき)が手を差し上げ、その周囲に陣を組む。たっぷり15秒息を殺してから星野がふうと息をついた。
「越谷、アナボリックステロイドでも使ってるのか?」
星野が真剣な顔で訊き、もう一人の戦士である葛西紀彦(かさい のりひこ)も同様にうなずいた。この街の、特に前衛は自分の力を高める意欲を失うことはない。それをあきらめた時が死ぬときだと知っているから。ことに星野は陸上自衛隊の士官だった。彼には迷宮街でインフラ整備に従事するべく配属された部下が多数ついており、彼ら個々の能力をあげる努力(それは、個々の生存確率をあげる努力と同義である)は何にもましての重用事なのだろう。
ええ、と越谷はうなずいた。ドーピングです。剣にですけど。
掲げた鉄剣は前回まで使っていたものとは違い新品だった。彼が迷宮内で発見した石、この迷宮内部に限り不思議にきらめくそれが鉄剣の中には埋め込まれているという。この街でも屈指の魔女二人が鍛冶師に頼んであつらえた試作品だった。彼女たちによるとその石の特性がうまく発揮されれば鉄剣の剛性が高まるということだった。
剛性、という言葉は越谷にはなじみの深いものだ。彼の趣味はサイクリングで、自転車の性能においてしばしばその基準は用いられた。剛性が高ければそれだけペダルを踏む力が損なわれずにタイヤを回す力になる。金属とは(それも、人間が扱うことができる程度の重量の金属ならなおさら)やわらかいものである。伝えた力が伝播するうちにその大部分はその金属の歪みや震えに吸収されてしまう。迷宮街で戦士たちが使う剣は鉄に銅、ニッケル、モリブデン、ニオブ、クロムなどの化学成分を調合したもので、およそ満足すべきコストパフォーマンスを実現していたものの、それでも金属の甲冑に身を包んだ化け物を叩き潰すにはあまりに柔らかかった。少しでも軽量、少しでも剛性の高い成分率を発見することは迷宮探索事業団の鍛冶師たちの永遠の課題でもあるのだ。
その石は、それほど重要な剛性の追求に別アプローチからの回答になるかもしれないという。それは歴戦の戦士であり(戦士としての必要上から)鉄鋼の精製についていくつかの論文を読んだ越谷には眉唾物に思えた。だから深夜のテレビ通販で金をどぶに捨てるような気持ちで今日迷宮に携えたのだった。片岡という鍛冶師の腕前は信頼しているから、今までよりも悪いことにはならないだろう…・…。
悪いこと? 自分の不明を恥じる思いだった。外見上は何も変わらない鉄剣だったが、今握っているこれはまったくの別物だった。腕が伝えてくる打撃の感覚が教えてくれる。これに比べれば今まではプラスチックバットで叩いていたようなものだと。
そういったことを手早く説明すると、目の前でその飛躍的な打撃の向上を見ていたこともあり、二人の戦士は深く納得した。
「これが契機のひとつになるかもしれんな。普及すれば、少しだけ状況が変わるだろう」
安堵の表情に胸がつまされる思いだった。彼らがもっとも進んだ部隊になって一ヶ月が経っていた。先に誰もいないという不安と緊張感は、そうではない立場では想像もしなかったくらいに重く厳しい。安定した探索の遂行を組織から命ぜられてここにいる目の前の男にはなおさらのことだったろう。この人はいくつだったろうか? と目じりにしわの走った顔を見て記憶をさぐった。もう小学生の娘がいたが、それでも三五才になっていなかったはずだ…・…。そうとは思えない貫禄、悪く言えば老け込みようは家族がいるためだけのものではない。明らかにこの一ヶ月で彼は明らかに憔悴していた。
「変わりますよ」
葛西も同じことを思ったのかもしれない。明るい声にはつとめてそうしているような気配があった。
「昨日より今のほうが状況はいいんですから。明日はもっとよくなります」
個々の戦闘での生存確率が少しだけ上がったところでそれが時間の大幅短縮につながるわけではない。この階層で野営するわけにはいかない現状が変わらないのだから、先に進めない問題は相変わらずあった。それはこの場にいる六人ともわかっている。それでも今だけは、と越谷は笑顔を浮かべた。