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ツナギの素材や厚さには職業と体力に応じて差はあったが、ブーツはみな同じものだった。スキーのブーツを皮製にしたと思えばいいだろうか。スネの半ばまで覆う牛皮には足の甲に二箇所、足首〜すねに二箇所の留め金があり調節/着脱ができる。かつては紐を使用していたが、皮素材に殺した化け物の爪がめりこみその死体を引きずることになってしまい魔法の火の海に飲み込まれた事故があり、すぐに脱げるように改善を重ねられた結果だった。靴底にはゴルフシューズを思わせる鋲が打ってあり、それがコンクリートを削る音が狭い階段に反響する。
迷宮街から地下へとつづく階段の途中だった。地上に近いために大規模な掘削工事を行うことができたここは階段状にコンクリートでならされていた。しかし(登山道の丸太の階段によく見られるように)その一段は人間には微妙に広く、下りはともかく上りは苛立ちを感じさせる。ことにはじめての第三層挑戦を終え心身ともに疲労している部隊にはなおさらだった。
無事で何よりどころか上出来の成果だった。第三層で数回の遭遇をし、緑龍四匹という第三層では最悪のケースにも快勝していたのだから。わが妹ながら――と笠置町翠(かさぎまち みどり)は妹の葵(あおい)を見直す思いだった。この妹は木曾でもその高い才能を称揚されていた。いつも一緒にいたから気づかなかったもののその魔法を使う速度、判断、距離感覚はすばらしいの一言に尽きた。本人の話ではもう未修得の術はあと数種類しかないということだ。探索者では素質・修練ともに高田まり子(たかだ まりこ)という第一期の女性が最高峰とされていたが、妹もそれに劣らないのではないかと思っている。ともあれ、妹の力もあって今日も無事に探索が終了した。翠も最近ではしばしばかすり傷を負うようになり、今日は初めて毒気にもあてられたがすぐに気づいて活性剤を使用したので事なきを得た。問題があったといえば活性剤は使い捨ての注射器で使うのだが、昔から注射が嫌いだったので他人にやってもらうこともできず、自分では手が震えて目をつぶってしまうのでなかなか血管に刺さらず、ひじの裏が麻薬中毒患者のように針の痕で腫れていることだけだった。これはなんとかしないとと思う。かといって常日頃練習できるものでもなかったが。
それかけた思考が今日の反芻に戻されたのは、すぐ前を歩く真壁啓一(まかべ けいいち)の背中を見たときだ。緑龍との戦いの時、前衛三人でもっともスピードがあり距離感覚の優れている彼は当然のように先行した。しかし第二層と違ったのはその直後につくべき青柳誠真(あおやぎ せいしん)と自分が出遅れたことだ。緊張と恐怖が葵の術を待とうと思わせてしまったのだった(少なくとも自分はそうだ)。真壁は二人の恐怖など知らぬかのように鉄剣をひっさげて一匹の懐に飛び込もうとしていた。そして翠はその右側の緑龍が首を真壁に向けるのを見た。
常識で考えれば真壁が一振りで目の前の緑龍を絶命させることはない。であれば二匹の緑龍から反撃を受けることになる。反射的に翠は脳裏にいくつかのイメージを描いた。それは魔法使いの初歩の術で生き物を金縛りのようにし動きを止めるものだった。本来では戦士には教えられないが、翠は家庭の事情で同時に術も使えるように教育されている。実戦で使うのは初めてだった。地上では一度使ったことがある。
コールもなしに緑龍たちがぎりぎりの範囲になるように魔法を発動させた。初めてにしては上出来で四匹の緑龍のうち真壁に注意を向けている二匹の動きがふらついた。ほっと息をつき、そして驚愕に目を見開く。
真壁が跳躍していた。両手で構えた鉄剣を振りかぶりながら。そして思い切りそり返した上半身の力を空中で解放し、振り下ろされた鉄剣の先端が緑龍の頭蓋骨を叩き潰した。完全に絶命している緑龍の懐に膝をつく。そこに葵の「いーち!」というカウントが響いた。その声にギョッとしたように身体を震わせ、緑龍がいない側へと飛びのいた。
緑龍をすべて巻き込んだ吹雪が突如として発生し、小型のワゴンカーほどの大きさのトカゲはすべて表皮を凍結させて力尽きたのを見届けてから、釈然としていない表情で立ち上がった真壁に駆け寄りその襟首をつかんだ。どういうつもりだ、と。四匹いてあんな無茶をするなんて死にたいのか、と。跳躍も大上段からの振り下ろしも強い力を剣先に乗せることができる攻撃法だったがそれだけに隙が大きい。一対一でも薦められないのに乱戦で使うなど言語道断だった。無事でいるのは奇跡に近い。安堵で思わず涙が浮かんだ。
「ごめん。勘違いした」
涙に戸惑う様子は予想外に冷静だった。初めての第三層挑戦、うわさに聞いた強敵との遭遇で恐慌状態になったというものでもなさそうだった。勘違い? と問うと真壁は翠を驚かせることを口にした。
寸前に緑龍が二匹とも縛られたと思ったんだ。葵が一発目に派手な魔法を使えない事情が何かあるのなら、動けないでいるうちにとにかく数を減らさないといけないと思った。その時は二匹とも反撃がないと思っていたから飛込みさらに振り下ろしで体重を乗せて一匹は殺そうと思ったんだけど。でも、その後に葵の吹雪が起きたんだから俺が勘違いしていたんだろうな。いやいや未熟未熟。
ぽかんと口を開けた翠の反応をあきれたためかと思ったのか、真壁は表情をあらためて心配をかけた、以後気をつけると頭を下げた。そして死体を切り取っているところへ走っていった。緑龍の死体は初めてだったために、先輩探索者が残したファイルと見比べながら切り取っている。すでに経験によってどのあたりの部位が貴重な成分を多く含有しているかあらかた調べられていた。
あの一瞬で緑龍が朦朧としたことに気づき、二匹の身体の死角である自分にはすぐには攻撃が来ないことを判断し、葵に攻撃魔法が使えない事情があると推測し、危険を顧みず跳躍して慣性を乗せた攻撃を成功させ、その直後の葵のカウントで自分が勘違いしたこと(実際は勘違いではなかったが)に気づいて吹雪の効果範囲から逃れるだけの跳躍を行う。整理してみれば一つ一つは難しくはないが、全てをあの緊張のなかで行うとなると奇跡に思える行動である。それを自然に行ったのだ、あの男は。ふっと従兄のことを思い出した。木曾の修行場において天才と称されたあの従兄を父が誉める点はその判断力と眼力だという。どんなすぐれた能力も的外れのタイミングで的外れの場所に向けられたら意味がない。孝樹はありとあらゆる点で凡庸だが、その一点では俺よりもはるかに優れていると。同じものをこの理論先行の戦士に感じていた。意外な人間に芽が吹いたのかもしれない。
地上についた。お疲れさま! と白衣を着た技術者が微笑んだ。小柄でショートカットのその女性の笑顔に真壁の顔がだらしなくゆるむ。この顔を見ている限りそんな凄みはないんだけどなあ、と苦笑しながら携帯電話の電源を入れた。探索者は道具屋で剣とツナギを受け取り併設されている更衣室で着替えてから入り口まで街なかを歩いてくる。ほとんどの私物は更衣室のロッカーに預けられていたが、携帯電話だけは持ち歩くことが奨励されていた。いつ誰が救助を必要とするかわからないからだ。スネあてや篭手と同じ材質の携帯電話ホルダーも販売されている。翠の携帯電話には連絡は入っていないようだった。視線を移すと治療術師の児島貴(こじま たかし)が受話器を耳に当てたまま険しい顔をしている。翠ちゃん、と受話器を耳から離して声をかけた。今日からちょっと東京に戻る、と。もしかしたら明後日でも帰れないかもしれない。そして常盤浩介(ときわ こうすけ)の顔を見る。常盤も同じように電話を耳から話したところだった。俺のところにもメッセージが入ってました、と言うその顔は蒼白で険しかった。何があったのだろう。