本日の探索、無事に終了。数日まったく訓練していなかったブランクどころか思ったよりずっといい動きができた。運動をせずに休んだのが良かったのかもしれない。あと、昨日神崎さんの話を聞いておいてよかった。地下で出会うものは俺たちのどんな図鑑にも載っていないものだけど、状況を認識するための感覚器官、動くための筋肉や関節などはあるのだから。青鬼との戦闘では落ち着いて攻撃をかわすことができた。
今日は新しいことが三つある。一つは笠置町姉妹の母親である理事が設置した訓練施設を利用したことだ。これは第一層の奥まった一室にあるもので、部屋には一人の黒人がいた。魔法で作られた人形だというそれは「始め!」という掛け声で攻撃を開始してくるのだ。動きは驚くほど速く、少しは自慢だったフットワークもただ翻弄されるだけだった。ふざけたことにそいつの武器は小さな待ち針の先端を平たくつぶしたもので、通りすがりに切りかかるが小さなナイフほどの傷しかつけられない。でもこれが、たとえば果物ナイフを持っていたら俺なんかは十分に殺されていただろう。
翠の大活躍を経て部屋を出たら、設置されたホワイトボードには二件の予約が書き込まれていた。何度も繰り返して訓練したらスカンをくらいそうだったのであきらめて第二層へ向かった。
その途中には濃霧地帯が広がっていた。あたり一面が真っ白でヘッドライトもなんの役にも立たない。常盤くんによると「大別すると罠の一種」だという。水蒸気ではなく、エーテルそれ自体に色がついているのだそうだ。エーテルの濃度はそれ以外の箇所と同じとのこと。これまでも濃霧地帯は見かけていたが、何しろ地図は完璧に出来上がっている地下一階のこと、その先に何も見るべきものがないとわかっていたので踏み込まなかったのだ。しかしこれからは、エディ(あの黒人の名前だ。なぜか? エディ=マーフィーに似ているから! ふざけてる)で訓練した帰りにはかならず通らなければならない。あまり気が進まないが、背に腹はかえられない。
そして第二層に挑戦した。
第二層へ続く道は緩やかな斜面になっている。自衛隊が設置した鉄鎖を伝いながら、ブーツには猫爪とよばれるつま先につける鉄製の爪をつけて降りていく。俺たち前衛は利き腕の反対側には篭手をつけており、それは指が分かれていないので二層に降りるこの斜面だけは利き手と同じ手袋をつけなければならない。
第二層も、壁の様子は第一層と同じく溶岩を思わせるごつごつしたものだった。基点に設置してある地上への直通電話で自分たちが第二層の探索を開始することを連絡して、北側にある小部屋に向かった。
念のため、敵との戦闘は一度だけにしておいた。出てきたのは正式名称をクリーピングクラウド、通称を梅ジャムと呼ばれる念液状の化け物だった。第一層のいちごジャムと同じく中心細胞を破壊しないと動きが止まらず、天井から落ちてくる奇襲さえ回避できれば特に恐れることもない相手――のはずだった。
これまたいちごジャムと同じように、触手状に伸ばした粘液を鉄剣を平らにして弾き返す。切ってしまったら触手がどこにいくかわからないから、ジャムと戦うときはそうしているのだが、それが仇になった。触手の先から毒気を吹き付けてきたのだ。
罠解除師として訓練を受けていれば訓練場で毒気を経験させてもらえるという。しかし俺にとっては単なる疲れにしか思えなかった。東京での鯨飲馬食は体力を削っているらしい、と自分を戒める思いだった。危なげなく勝利し、死体を切り取り、第一層に戻ろうと鎖を伝って登りきったあたりでそれが疲れよりももっと深刻な何かだと悟った。なにかやばいかもしれない、とだけ言い残して膝をついた俺の顔色を見て常盤くんが「真壁さんたぶん毒気食らってる!」と叫んだ。慌てて彼の持つ活性剤を注射された。
それから俺が持っている水ばんそうこうを露出している皮膚に塗りたくり(こうすれば、外傷だけでなく消耗も回復してくれる)、泡を食ってほうほうのていで帰還した、というわけだ。
東京に戻り、俺は前向きになれた。「自分はいずれ死ぬ」ではなく「死ぬ直前まで見てやる、でも死なない」と思うことができた。これはとても大きい(小林さんや織田さんにちょっかいを出せる気分になったからというわけではないぞ)変化だと自分で思っていたしそのとおりだった。でも、ちょっと甘かったかもしれない。
俺は変わっても、周囲は何一つ変わらないのだ。特に不注意や不運がすぐ死に直結する特徴は。臆病に大胆に。生き残るために。