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どんなにきっちりとルールが決められていても、いや、決められているならなおさら細かなところで目こぼしの余裕は必須だと巴麻美(ともえ あさみ)は考えている。それは事務員でも同じこと。違うのは、事務員相手のお目こぼしはささやかなもので済むということだ。備品のクリアファイルを持って帰ったり、販促用のポスターを友達に配ったり、お茶菓子をオフィスデポで買って経費で落としたり――これだけのことで職場の華が明るくなるのだから可愛いものだ。とはいえ夫のように、上司がそれを黙認することを奨励すべきとまで言い出すのも馬鹿らしいとは思うが。ちょっとした小ずるい甘えは、こそこそと目を盗んでやりそれをなんとなく見逃されるからこそいいのだから。
そしてこれもまた許されてしかるべき甘えだわと胸を張りながら、彼女は勝手知ったる他フロアを歩いていく。目当ては後輩にあたる事務OLだった。彼女の配属当時に仕事を教えた縁で仲良くしているし、今ではもう少し関係が深い相手だった。後輩――大沢美紀(おおさわ みき)の後頭部が見えて足を止めた。その周囲にスーツ姿の男性が二人立っていたからだ。込み合う新宿のオフィスビルだから、あまり並ばずに昼食を食べるには50分には職場を出たいところだ。それを邪魔するかのように後輩に仕事をふる無粋者は誰だろう? 相手によっては追い散らしてやる。今年で28才、伊達にお局さまの仲間入りをしつつあるわけではないのだ。目を凝らした。え? アレは――
「誠司? どうしてこんなところにいるの?」
驚きの声に内縁の夫である後藤誠司(ごとう せいじ)が振り向いた。そして笑顔になる。
「その言葉はそっくりそのままお前に返そう。まだ業務時間は終わっていないぞ」
夫とはいえ社内での序列は上。あ、いや、とごまかしながらそのそばまで歩いていくともう一人の人物が誰だかわかった。結婚披露の場で少しだけ話したことのあるその男性は、社内でよりも経済誌の記事で見かける方が多い顔だった。田垣専務! と直立する。おそらく正体に気づいていなかった周囲の若いビジネスマンがぎょっとしたように背筋を伸ばした。
「こんにちは、麻美さん」 田垣功(たがき いさお)取締役に好好爺という表情で会釈をされて恐縮した。これから誘いに行くつもりだったので降りてきてくれたとは好都合だ。もし良ければ昼食をご一緒しないかね?
ああ、そうかと納得する。後輩は重要な取引先の娘だと聞いたおぼえがあった。利発で素直で仕事ができる娘だったのですっかり忘れていたが、縁故で入社するほどなら専務と知り合いであってもそれほど不思議はない。大沢は夫がこのビルにいた間そのアシスタントをしていた縁もあり(彼女に紹介されたのだ)、久しぶりに東京に来ていた夫との食事の場に誘われたのだろう。お供しますと笑顔を向けてから、夫にはこっちに来てるなんて知らなかったよと苦情を言った。
「夕方までには戻るつもりだったからな。会議が難航すると思ってたから、昼はコンビニ弁当で済ますつもりだった」
とはいえ教えてくれればちょっと会話くらいはできただろうに・・・。相変わらずだ。田垣と顔を見合わせて苦笑した。
最高権力者の一人が公認したサボリを止められるものがいるはずもなく四人は連れ立って役員用エレベーターに向かった。結婚生活はどうかねと専務に問われ、別居中である以外は満足ですと笑った。後ろでかつてのコンビが話している会話を耳にとどめる。
「恩田さんってお元気ですか? 真琴が知りたがってました」
「――恩田? 恩田。すまないけど、名前を知っている探索者なんて一握りだから――恩田信吾(おんだ しんご)?」
「ああ、たぶんそれです」
「・・・真琴さんはどうして知りたいの? いや、どうしても知りたいか、話のついでに知りたくなったのかどちらだった?」
「どうしてもって感じではなかったと思いますけど」
「じゃあ、近況はわからないって伝えておいて。強い希望じゃなければ知らない方がいいだろうから」
なんとなく沈黙が落ちる。なるほど夫は大変なところにいるのだなと実感した。