やっぱりこの舞台は自分にうってつけだった。相手が探索者屈指の食わせ物であり実力的にも最強レベルの探索者だとしても地の利が自分にある以上恐れる必要はない。壁を利用してどんなことをやろうとしていたのか知らない――おそらく、自分にしかわからない覗き穴でこちらの位置を知って壁を崩して埋めるつもりだったのだろう。あぶないことを考えやがる――が、それも壁に近づかせなければ怖くはないのだった。この勝負、もらった。真城雪(ましろ ゆき)は確信していた。慢心でも過信でもない、ぎりぎりの場所で命のやり取りを続けてきた人間の直感である。
それは向こうにもわかったはずだ。だからこそ、その動きは全て注視しなければならない。
神足燎三(こうたり りょうぞう)は一つ息をついたようだった。そして、何かを決意した光をこめてこちらを見やる。その上体が深く沈み、膝がたわめられた。分厚いツナギの上からでもその太ももが膨れ上がったことがわかった。
地を蹴った。自分にではなく、横に。真城はあっけにとられてそれを見やった。予想外の動きだったからだ。どうする? 追うか? いや、遠く距離があるのに相手に合わせて直感で動くのは危険だ。
神足は試合場の隅でこちらを振り返った。そして木刀を両手で八双の形に抱えた。
獣の咆哮が響き、そのまま走りこんでくる。避けるか? いや、迎え撃つ。振り下ろす木刀をかわしながらの逆袈裟だ。結局のところは剣をいかにあやつるか、そこで勝敗が決することになるのだ。世界から音が消え、動きが緩慢になった世界で突き進んでくる男を見据えた。あと七歩。
あと五歩。突然その男が消失した。しかし混乱することはない。真城の眼はしっかりと、こちらに向けてスライディングした動きを捉えている。ちょっとタイミングが早かったね、と思う余裕まであった。
真城雪には誰にも話していない特殊能力がある。通常の視界を上空から見下ろしたように再構成する処理能力がそれだった。それは自分が進む先に土嚢があるかどうかを常に教えてくれて、そのために――カモフラージュで視線を送ることがあっても――真城は歩く際に土嚢の位置を気にする必要がなかった。だからこの舞台はアドバンテージなのだ。
それはとても得がたい能力だったが、女帝はそれを自分の進むところに土嚢があるかどうかを判断するようにしか使っていなかった。だからスライディングを追って動く視線がその進行方向に積まれた土嚢を発見したとき、あ、こんなところにあったんだとなぜかのんびりと考えた。
神足の足先がその土嚢にぶつかった。前へ滑るエネルギーが行き場所を失い、反動で神足の身体が浮き上がる。
え? なんでこの高さにおっちゃんの顔がくるの?
呆然としているのは一瞬のこと。伸ばされてくる突きを身をよじってかわした。ぶつかる。組み伏せられる。そうしたら負けだ。ならば。腿に力をこめた。
全力で後ろに跳躍する。もちろん壁がある。これはもう賭けだった。悔しいから左足の膝から先を思い切り振りぬいた。相手のみぞおちに食い込む感触。よし!
背中が土嚢の壁に激突する。盛大に壁を崩しながら必死に審判の姿を探した。彼は平然として自分を見下ろしている。壁がくずれても別に慌てる必要がないからなのか、それとも一部分が崩れた程度では彼の土台はびくともしないのか。後者であってくれれば自分の勝ちだ。前者ならばここまで。でもそれもいいかもしれない。
土嚢の壁を破壊しながらもともと壁があった場所の向こう側に転がった。間髪をいれずに跳ね起きると近くに転がってきた神足の木剣を手にとった。自分には少し重い。しかし自分のものは場外に出てしまっている。唯一の得物を抑えた自分の勝ちだった。
そう。実感が湧きあがり、不覚にも喜びに震えた。自分の勝ちだ。審判の橋本辰(はしもと たつ)はまだ残っている土嚢の上で自分を見下ろしている。自分が使っていた木剣は遠く転がっている。神足は自分のみぞおちへの蹴りに、崩れた土嚢の壁のあたりで四つん這いになって苦しんでいた。もしかしたら肋骨を折ったのかもしれない。とにかく自分の勝ちだ。
ぐす、と涙ぐんだ。ようやく、ようやく自分は師を超えた。アマゾネス軍団を結成した晩、一緒に酒を飲みながら今後の関係のあり方を話し合った。この街におけるアマゾネス軍団の価値を確信していた二人はまったくこだわりなく、今後は疎遠になることを合意した。しかし自分は実はふっきれていなかったのかもしれない。慕うというのではなく、いつか越えなければならない壁という意味で目の前の男を求めていたのだ。それが今日かなう。一歩踏み込んだ。
走りこまれてからの出来事には歴戦の女戦士もさすがに混乱していた。壁が崩れなかった幸運にもはや感動すらしていた。みぞおちへの蹴りは自分にしても会心の一撃だと誉めてやりたい気分だった。そして試合はもう勝負がついたのだと思っていた。だから神足の行動が理解できなかった。
彼は四つん這いになりながらごく自然に崩れた土嚢の壁の下に手を差し込んだ。そこは真城が最初に試合場を眺めたとき意識に残った四つ並んだ土嚢だった。そして神足は何か棒状のものをを引き抜きそれを自分の方に伸ばす。全ての動作はゆったりとしており殺気のかけらもなく、真城は対応するきっかけをつかめなかった。
そして木剣の先端が首筋に当てられた。