8:27

夢オチだったのか、とぼんやりとした世界の中で思った。明日死ぬかもしれないと思って眠れなかった夜、皮膚を裂く刃物の痛み、生き物の死体を削り取る刃とどろりとした鬱血が流れ出す感触、親しかった人間の死に「死んじゃったのか」としか思わない異常性・・・そりゃそうだ、夢に決まってる。どこから見ても臆病で平凡な大学生の自分が迷宮探索に飛び込むわけないじゃないか。
ほら、部屋には嗅ぎなれたコーヒーの匂いが充満している。由加里が親戚から送ってもらっているという、新潟の喫茶店で販売されている粉。「朝だよ」という声が聞こえた。三度呼ぶ声を無視すると彼女はため息をついて起こしてくれるのだ。ほら、足音が近づき、小さい掌が肩に当てられ――唇を何かが甘噛みする。小柄な身体、小さな頭にふさわしい小さな前歯の感触が気持ちよかった。
長い楽しい夢だった! でも、醒めてくれてよかったと心から思う夢でもあった。真壁啓一(まかべ けいいち)は目を開いた。目の前に見慣れた恋人の顔、そしてその背後には見慣れた彼女の部屋――ではなく朝の光にきらめくシャンデリア、さらさらと肌触りのよいシーツ、そして高い天井には染みひとつない。ここは、どこだ? 眠い頭で考えた。
「どうしたの?」
あたりを見回す男にその恋人――神野由加里(じんの ゆかり)は怪訝な顔をした。
「ここ、どこ?」
「えーと、日本」
なるほど、もう少し狭くお願いしますと気持ちを込めてうなずいた。
「じゃあ、関西」
「……もしかして迷宮街?」
恋人はうなずき、真壁は脱力した。そりゃそうだろう。あんなリアルな夢があるはずないじゃないか・・・。
「どうしたの?」
いや、と苦笑いして手を差し伸べ小さな肩を抱き寄せた。こんな小さくて可憐な生き物は久しぶりだった。この街の女たちは(非探索者もふくめ)どこか人品が骨太である。だからだろう、昨夜の北酒場では日ごろ親しくしている人間がすべて集まっての大宴会になってしまった。最初は二人で端っこの席を取って、行き交う人を一人一人実況解説する予定だったのだ。自分達の席に来なさいという女帝真城雪(ましろ ゆき)の命令も断固として(平身低頭で)つっぱねた。しかし、一瞬だけトイレに立って戻った席にはもう自分の恋人はいなかった。拉致された彼女はアマゾネスたちの集団で笑い転げていた。その隣りにあいている椅子は自分のためのものだろう。不承不承座ったら、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)が「こっちに円テーブル二つくっつけてあるぞ」といらぬことを言った・・・。
カップにコーヒーを注いでいる恋人を横目で見る。ロマンチックもくそもないクリスマスディナーだったろうけど楽しんでくれただろうか? その顔はいきいきとしているようだった。
夕べの感想を訊いてみた。真城さんきれいだった! と返ってきた。写メールに四枚も顔写真もらっちゃった! という言葉に苦笑する。確か自分の顔写真は一枚しかなかったし、「きっと見ないし、ていうか男は顔じゃないよ」と言っていたのを思い出したのだ。
洋風のお金持ちがベッドで朝食を食べる際に使うような小さなテーブルを二つ用意し、いちどやってみたかった! と笑ってから隣りにもぐりこんだ。にこにこと自分を見上げる顔に合点する。つまりテーブルを置いてやる執事役は自分がやるのだろう。ベッドから降りて、上に載せられているパンとサラダ、スクランブルエッグの朝食をこぼさないように彼女の前においてやった。真壁はこの街に来てから朝食を食べないようにしている。コーヒーカップだけ持って由加里の隣りに腰掛けた。
枕もとの観光ガイドを開く。今日立てていたプランを説明しようとすると由加里は首を振った。いいよ、と笑う。
「啓一が見せたいと思ったものならなんでも嬉しいから」
お、おう。と幾分照れながらコーヒーをすすった。甘党なので普段はココアかジュースになる。だからコーヒーの香りは隣りにいる娘の記憶に直結していた。でも、と恋人が声を上げた。今日は九時までにこっちに戻りたいな。翠さんとモルグに泊まる約束しているから。
「なんでまたわざわざモルグに?」
その質問に指を折って数えた。一つ、この部屋は五年に一泊くらいでいい。分不相応だよ。それには真壁も深くうなずいた。目覚めてからこれまでの数分間で「ここは自分の居場所ではない」という意識が生まれつつあった。二つ、モルグで寝てみたい。普段啓一がいる場所だし、なによりあの殺伐とした雰囲気がたまらない。お化け出ないかな。三つ、翠さんとよく話してみたい。昨日の夜ではまだ何か憂鬱な感じだったし、乙女トークでしか解消できないものがあるのよ。いつも啓一がお世話になってるんだからね。四つ。小指を伸ばして意地悪く笑った。
「先ほど今月のおつとめが来ました。今夜は一緒には寝られません」
突然の生々しい言葉。うろたえた様子は顔に出たのだろう。残念だったね! でも夕べは滑り込みでよかったじゃないと恋人が笑った。照れ隠しに今日の観光は大丈夫か、この街で寝ていてもいいぞと言うと、娘は笑いをかみ殺しながらあたしはいつも楽なの知らなかったっけと答えた。そうだ。いつもこの会話では照れ隠しに真壁が身体を気づかい、恋人がこう返すのだった。
「啓一、変わらないね。――よかった」
白い小さな、マニキュアの塗られていない手が髪をなでる感触。それでも片手はしっかりとパンのかけらを口に運ぶ姿に真壁は笑い、お前の食い意地も変わってないよと答えた。