今年も残すところあと三日。日記をつけ始めたのが11月1日だったから、もう二ヶ月も続いたことになる。最初の頃にあった「明日死ぬかもしれない」という切迫感はいまはもうない。別に死なないと思っているのでもなく、死んだら死んだで仕方のないことだと受け入れてしまったのだ。結局、不注意ならば自動車のハンドルを切り損ねるし、運が悪ければ上から鉢植えが降ってくるものだ。
じゃあどうして日記を? と自分でも思うけど、それはきっと日記に書くために色々と楽しいことをしようと思うからなのだろう。一日が終わってメモ帳を開き、さあ今日は何をしたんだっけ? どんな楽しいことがあったんだっけ? と思い出さなきゃいけないようだとまるでその日を無駄にしてしまったような強い後悔を感じるのだ。その後悔を忘れないため、毎日書きつづける。
「啓一、10年はな、3650日しかないんだぞ」 うちの爺さんの言葉だ。そうだ。10年は3650日しかないのなら一日を無駄にしていいはずがない。この日記も毎日を積極的に過ごすための動機の一つに確実になっているのだから、続けないといけない。
それに、俺が書き残して公開することで、西野さんという気分のいい人が、小寺という愉快な男が、神崎さんというエレガントな色男が、今泉くんという前向きな美少年がいたことをみんな思い出してくれるだろうし。あー、やっぱり日記の動機はネガティブなのか。楽しまないと。
今日は由加里という楽しい生き物がいたのでとても充実していた。由加里は「寒い! 温泉に入りたい!」と言っていたけど、二七日の雪がまだ残っている可能性を考えて北は避けることにした。ということで銀閣平安神宮〜青蓮院〜新福菜館三十三間堂清水寺都路里高台寺と見て歩いた。年末だからかな? 日曜なのに人手が少ない気もする。喜んでくれたようでよかった。
夕食は久保田早苗(くぼた さなえ)さんに教えられた料亭へ。以前青柳さん、久保田さん、神崎さんと行って一人五万円取られたところだ。今回は二人ともお酒は控えめだったので適度な金額で済んだ。でもご馳走した人間にプレッシャーになるので金額は書かないでおく。いつもの暮らしが質素だから(宴会がない日は無料の定食だけで生きているんだから)、たまにはこういうハレの日があってもいい。その後、祇園の美観地区みたいなところを二人で歩いた。
由加里は今夜は翠と語り合うらしく、約束の時間まで男モルグに設置されたテレビを見ながら待った。木賃宿の建物は二階が男モルグ、三階が女モルグだけど、女モルグは男子禁制だが女性は男モルグには往来自由なのだ。その場にいた葛西さん、児島さん、津差さんらとテレビを見ながら話した。このあたりは居残り組らしい。
27日から三日までは商社の買取が行われないから探索もお休みだけど、それは地上の理屈だ。当然地下のやつらがさまよい出てくるのを防がないといけない。煌々とライトが照らす階段は怪物たちを近寄らせないものだけど、さすがに四〜五日も俺たちが降りていかないようだとチャレンジャーな奴らが登ってこないとも限らなかった。そんな時に実戦経験の少ない自衛隊員だけで無事に済む可能性は低い(鉄砲は人間に対しては最強の武器だけど、それは人間が鉄砲を理解しているからだ。鉄砲を知らない存在相手では単なる命中率が悪いダーツに過ぎない)。だから、迷宮街に残る探索者たちから志願者を募って第一層を巡回して示威行動をすることになっていた。報酬は一日三万円、そして去年は一月一日の探索者にはお餅サービスがあったらしい。実家に帰るのも憂鬱だし俺も居残り組になろうかな。お餅は徳永さんの家族が音頭をとって、事業団職員の方々が臼と杵でついてくれるという。そっちに加わるってのもいいな。
由加里を見送ってから津差さんと飲む。彼の部隊の幌村幸(ほろむら みゆき)くんの話題になった。才能はすごいな、と津差さんは認めた。しぶしぶ、という感じだった。でも、俺たちのやってることを正当化する態度はどうにも鼻につく、らしい。多分、歴史上の侵略は大概そうだったんだろう(少なくとも末端では)けど、どこからどう見ても悪である行為に「大義」とか「正義」と言われると腹が立つという。まったく同感だ。
俺はまったく同感だけど、問題なのは緊張感に満ちた毎日を過ごす探索者が心のより所とするために幌村くんの意見に感化されつつあるということだった。もちろん長い間ここで過ごしてきた第一期の人たちには惑わされる人たちはいない。津差さんの意見だけど、誰かの正当化を必要とする程度の人間は遅かれ早かれ淘汰されるのだと俺も思う。
でも、ここでまた問題を難しくするのはエディの部屋の存在だった。極めて早い動きと低い殺傷力を持ち、つくりものだから殺しても罪悪感を感じないあの黒人の訓練場があることで探索者の成長の速度と生存確率は跳ね上がった。あまりに新規探索者が死なない/逃げださないものだから、来年の四月二〇日までと予定していた第二期募集を二月末までに繰り上げようかという案もあるくらいなのだ。エディの部屋は、これまで生き死にのきわで行われていた成長という行為を容易にしてしまった。その結果、これまでなら要求された覚悟の量をもたないで能力だけ高まる人間が増えていく気がする。
でも、結局は宗教も同じなのでは? という俺の意見に津差さんはうなずいた。極端な原理主義者でもない限り、現代の信仰もつ人たちは上手にそれを利用している。宗教の定める禁忌で都合の悪いものは上手に無視しながら、精神的な安定だけをうまく取り入れている。すぐれたバランス感覚。幌村の意見に感化されるのも、とりまきたちにとってはその程度なのでは? 津差さんは深く、そして苦い顔でうなずいた。
そうだ。苦い顔の理由は俺にもわかる。
経典はもう新しい言葉を吐かない。けど幌村はこれから何を言うかわからないのだ。
俺たちの会話を聞いていた小川さんがとりなすように言った。それほどには問題にならないと思います、と。少なくとも当面は、と。どうしてか? と訊いたら、小川さんの見る限りでは探索者は結局のところ現実主義的だという。自分が信じる価値観で相手を心底認められないかぎり、共感はしても狂信には陥らないと。この街の探索者の根底にある価値観はなんですか? と訊かれた。
そりゃもう文句なく生き残る力だ。てことは、この街で幌村が教祖を目指すには笠置町パパを超えなければいけないということか。
多分人類じゃムリ。