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何度目かの深呼吸。それでも指先の震えはとまらない。伏せた視線の先に組まれたそれをじっと見つめるそぶりで拒絶しておきながら、肌は外界のことを懸命に探っていた。ちらちらと視線が送られてくることを感じる。そのたびに心が痛む。その視線、おそらく心配してくれている親戚たちの視線に応えなければならないとはわかっていた。しかし、もしも、心配しているのではなかったら? あなたがついていながらみすみす死なせるとは何事かと責められたら? 倉持ひばり(くらもち ひばり)は拒絶しているのではなく恐れているのだった。
首筋にぴたりと冷たいものが当てられた。思わず奇声をあげて背筋が伸びる。視界の先にはたまに見かける顔が笑っていた。たしか、アマゾネス軍団の罠解除師で――落合香奈(おちあい かな)といったと思う。落合は向かいに座ると手にもっていた缶コーラを差し出した。この寒いのにきんきんに冷えているそれに戸惑ったが、手に持って見るとその冷たさが気持ちいい。心の中の嵐が表出しているのか、手足顔の末端が真っ赤になって熱をもっていることに気がついた。誘惑のままに缶を額に当てる。そうしてようやく人心地ついた気がした。
「ミスしちゃったね」
投げられた声はあくまでも優しかったが、内容は彼女に非があると告げていた。やっぱりそうなのだ。眼前に起きた前衛二人の死。誰の肩にも死が乗っているこの街で、さらに日々を敵と接触しつつ生きる前衛だからその悲劇は各人の実力不足と割り切っていいはずだった。しかし何かが告げていた。二人の死は自分にも原因があったと。確信に近い直感に反論できないまま心を苛まれている。自分は何を間違えたのだろう? すがる思いで同業の女を見つめた。実力では自分のはるか下にいながらも経験ではまったくかなわない相手。
「濱野くんから一通り話は聞いたけど、実際はどういう感じだったの?」
苦いものをかみ締める思いで記憶をたどり、話し出した。その心とは裏腹に淡々とした声。
――大迷宮第二層にて、倉持ひばりが徘徊する怪物の集団を感じ取ったのは彼らから110メートルの距離をおいてだった。敵の数は八体、体格と移動速度からクンフーと呼ばれている人型で格闘技術に長けた化け物と推測された。その旨を伝えると前衛は鉄剣を抜き放ち後衛はフードをしっかりとしめた。そしてそのまま前進する。70、50とカウントしていく中、不意に群れが加速した。しかしなおかなりの距離がある。落ち着いて倉持は警告を発した――
落合はうなずき続きを促す。
――どちらの奇襲ということもなく戦闘が始まった。索敵の結果どおり化け物は八体、優れた体術でしばしば後衛にまでも被害を与えてくるクンフーと呼ばれる化け物だ。倉持は背後に後衛の仲間たちを集めながら空気中のエネルギーを操作する。自分たちを中心に緩やかに風を、地面には水流を再現する。これができるのはこの街では彼女と訓練場の教官だけだろう。もちろん強い意志さえあれば後衛に届く程度の妨害だが、極限の戦闘下ではこれだけで十分接近しようという意思を阻むことができた。今回もそれはあたり、こちらに来ようと身構えていた二体が前衛たちに向きを置き換えた。
ライトによって強調されている壁面の陰影が一瞬だけかき消された。クンフーが三体固まっているところに突如発生した火の海は、その中で膝を尽き崩れ落ちる姿を飲み込みながら火炎の鞭を振るっている。それがさらに一体を捕らえた。勝った、と倉持は確信した。だから残りの四体が一人の女戦士のもとに殺到することに気づかなかった。
小柄な女戦士にさらに小柄なクンフーたちが取り付き、残り二人の前衛が救出に駆け寄るや四散した。そのまま迷宮内部を駆け数メートル先で横道に飲み込まれる。こうなってはもう追跡はできない。そして倉持は自分の喉が悲鳴をあげるのを聞いた。女戦士の首が180度ねじれていたからだ――
その後、警戒体制を敷き第一層に向かって戻る途中でニコチンとよばれる煙状の化け物に出会った。知能などあると思えないその化け物はしかし魔法を使うことができ、火炎を飛ばす術によってもう一人の前衛が力尽きた。最初の戦闘が終わった直後にきちんと回復させておけば死ぬことなどなかった。しかし仲間の死と恐怖に背突かれるように回復もせずに地上に向かったのだった。そのあっけなさに、死ぬときは所詮そんなものかという気もする。そこで自力での帰還はあきらめて地上に救援を求めた。倉持が出稽古に出た縁で湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)がもう一人の仲間の戦士とともに救援に駆けつけた。
ぽん、と手が頭に乗せられる。それを感じて視界が涙でにじんだ。私は、と鼻声で問い掛ける。
「私は何を間違ったんでしょう? 私がきちんとしていればああはならなかった、という気がするんです。でも自分が何をどう間違えたのかわからなくて」
「出稽古に出たときのこと聞いたよ。湯浅くんが驚いてた。敵を発見できる距離が100メートル以上あったって。私だって100メートルぎりぎりがいいところだから、さすがはサラブレッドと思ったもんだ――でもね、私はそれだけ先の敵を感じられたとしてもそれを実際に告げるのはせいぜい60メートルくらいまで接近したあとにしてる」
はっと顔をあげる。敵の接近を知ったら即座に知らせるべきではないのか?
「目に見えていないものに警戒するって疲れるものなのよ。私たちは実際に感じ取れるから集中力がもつけれど、目にも見えない場所に敵がいるよと言われて緊張を開始したら、実際に遭遇するときにはへとへとになっちゃう」
親戚の話を思い出した。訓練場の教官である洗馬太郎(せば たろう)は160メートル先の怪物の気配を感じ取るらしい。それを聞いて案外たいしたことはないのだなと思ったことがあった。『人類の剣』ともなれば250メートル以上先の気配さえ気づけると、それくらいの実力差はあると教えられてきたからだ。それがさらに自負心を呼び起こし、できるだけ早く怪物の存在を感じ取り伝えることに心を砕いてきた。しかし洗馬が150メートルでそれを告げるのは、仲間たちの精神が耐えられるのがその時点と判断したからではないのだろうか。何しろ彼女を教えた師匠がはっきりと「洗馬の索敵範囲は300メートルを超える」と言ったのだから。目の前の女や訓練場の教官が仲間に向けている思いやりを自分は抱いたことはあったろうか? ない。そこには教官に対する意地、自分の実力に対する自負心しかなかった。あまつさえ仲間たちに対し「導いてやっている」とすら思っていなかったか。
仲間たちの気持ちを想像した。降ってわいたように自分たちの仲間になったサラブレッド。その索敵能力、罠解除能力、後衛を危険から遠ざける能力をはじめいざ地下にあっての胆力も自分たちがかなうとは思えない。そのサラブレッドが当然の顔をして110メートル先の怪物の存在を告げるのなら、自分たちはそれにきちんと対応せねばならないのだ。しかしそうは思っても一朝一夕にして強靭な精神力を身につけられることもなく、しかたなく直前までは心身を弛緩させることを覚える。罠解除師が場所を認識しているという甘えのもとでの弛緩。だから、五〇メートルに達してこちらに気づくと同時に疾駆してきたクンフーに対応できなかった。そして女戦士は首の骨を折られた。そういうことか。
「湯浅くんの話を聞いたとき、ちょっと注意しとかなきゃいけないかなとは思ったのよ。だから二人の死の責任は私にもあるわね。私たちは、敵を見るよりも前に味方に気を配らないといけないわ。一人一人の体調、意気込み、緊張の度合い、そういったもの全てを判断して探索の舵をとらなきゃいけないわ。だって私たちだけが戦闘に参加しないんですもの。怪物と接近していくという事実を一人で抱えているのは確かに疲れるしつらいことだわ。でもこれが私たちの仕事の一つでもあるんだから、甘えちゃいけないのよ」
そして飲み終わった缶を机において立ち上がった。
「そして、あなたの仲間たちにも問題はあるわね。何より自分の命なんだからあなたの警告は早すぎて疲れると意見を言わなければならなかった。でも、遠慮したのか意地を張ったのかできなかった。これまではね。これを教訓にいい関係を築けるといいわね」
再び頭に置かれた手が髪の毛をくしゃくしゃにする。立ち去る足音を聞きながら、ぽろぽろと涙がこぼれた。それでも自分の雰囲気はやわらいだのだろう。様子をうかがっていた親戚の姉妹が駆け寄ってくるのが感じられた。そして――聞きなれた足音が三つ。生き残った仲間たち。
こんな泣き顔を見られるのはいやだなとちらりと思う。でも仕方ないのだろう。ふたたび同じことを繰り返さないように、仲間たちと対等の関係を築くためには。