「・・・黒田くん」
その声だけを聞いた者がいたとする。そしてその人間が本日この街で剣術トーナメントが行われたとだけ知ったとする。それでも絶対に、その誰かはトーナメントの準優勝者とドアの向こうからもれてくる声の主を一致はさせるまい。黒田聡(くろだ さとし)は苦笑した。
「あの女、いったい何者なんだ・・・」
一瞬だけいぶかしく思い納得した。トイレの中にいる国村光(くにむら ひかる)は週末だけこの街にやってくる週末探索者と呼ばれる生活を送る人間であり、あの女と呼ばれた相手は探索の前夜から探索中だけこの街にいると評判のある種の隠れキャラだったのだから。
「湯浅さん部隊の魔法使いで、西谷陽子(にしたに ようこ)さんです」
言葉の後ろは何かを吐き出す音にかき消された。もう胃の中に固形物はないのだろうか、何らかの物体が便器の水面をたたく音は聞かれなかった。黒田は傍らに立つ高田まり子(たかだ まりこ)を見上げた。胃の中のものを戻すその音は、魔女姫と呼ばれる女性に生理的な嫌悪感を感じさせるらしい。彼の鋭敏な肌は周囲に充満したエーテルを感じ取っていたが、戻す音が聞こえるたびそれが揺らぎ薄れるのがわかった。当たり前だ。地上では本来ならば計測不可能なほどに薄いエーテルをこの空間に集めているのが彼女なのだから、その気がそれれば集められたエーテルは即座に雲散霧消する。
エーテルが薄れるたびに、黒田の肩に手を置いている鯉沼昭夫(こいぬま あきお)が焦りを交えた視線を高田に送っていた。黒田に見る限り、肝心なところでエーテルに逃げられてこれまで鯉沼は三度治療術に失敗している。治療術師として探索者中第二の評価を得ている彼であっても疲労は相当なはずだった。
「・・・絶対に」
吐き出す音がやみ、続いて恨み言が聞こえてきた。
「絶対にあんな運転は必要なかったんだ。ドリフトは現代日本には必要ないんだ。それよりなにより、俺たちは一刻一秒を争う重症じゃなかった。あのチビ、車用意するまではほめてやろうと思ったがとんでもない運転手を・・・」
どちらかに深刻な怪我でもあれば一刻も早く診療所に運ぶ必要がある。それに関してはみなが意見の一致を見、最善を尽くそうとしていた。大切な触媒を術師のために差し出した娘がいた。それを握り締め、目を皿のようにして試合を見つめた夫婦がいた。タンカのそばで試合中ずっと中腰で飛び出せるようにしていた男女がいた。勤め先のコネで道具屋から軽トラを調達し待機させた研究者がいた。一秒を争う運転をするべく運転席でエンジンを温めたドライバーがいた。ぬかりはないように思えたのだ、その時は確かに。
たった一つの漏れは、緊急性がない場合の代わりのドライバーを用意していなかったことだ。さらに悪いことには彼女には打撲の深刻さを理解することができなかった。彼女が見たのは普段は整った眉目が赤黒く原型を失っている様子と、グロテスクに指の股が広がって内出血が膨らんでいる手だったのだ。そして車を準備した娘は急ぐ必要がないことを伝えなかった。車が発進したあとは三人とも何も言えなかった。何しろ「しゃべると舌を噛むよー」との言葉を冗談と思えなかったのだから。
トイレの中から延々と続く恨み言に辟易したか、魔女姫がふうと息をついた。エーテルが消えていった。
「それにしても」
同じく一息ついた鯉沼がつぶやいた。
「乗り物酔いって運動神経に左右されるのかなと思ってましたけど、国村さんが弱いって意外でしたね」
普段は酔わない、とつぶやきが返ってきた。自分でも自動車を持ってるしな。あの女のいかれた運転に乗れば誰だって――
そして静かになり、「よし、落ちた」と魔女姫がつぶやく。黒田は苦笑した。