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一晩三千円を支払えばシャワー付の個室が借りられる。今日の収入は六千円と少しだから実際にはそんな余裕はないのだが、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は個室を借りることにした。今日が初陣で三度遭遇し、彼はハト派のパーティーを組んでいるので一度は戦闘を回避して二度の実戦を経験した今、迷宮出口のシャワー室で返り血はすべて流しているから別に銭湯でもよかったのだが、一人で思い切り身体を洗いたかったのだ。部屋にたどり着いてすぐにシャワーを浴び、一眠りして起きたらこの時間になっていた。小腹が空いたので何か食べようと北酒場に足を向けた。
店内は相変わらずの盛況だったものの知り合いの姿はいないように思える。あきらめて無料で食べられる定食を受け取り空いている席についた視界に知り合いの顔が入ってきた。同じく新参の探索者にして迷宮探索事業団理事の娘、笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。こんな近くでも気づかなかったのは、普段の陽気さと騒がしさがまったく見られないから。瞬時に彼女の部隊の面子を思い出したが、誰も死んではいないはずだった。座る前に気づけばそっとしておいたものだが斜め向かいに腰掛けてしまった以上見て見ぬふりも通じない。
「葵さん、おつかれ」
びくりとして上げたその顔は何かに怯えているようだった。津差は疑問に思った。第一次募集からの生き残りは別として、第二次募集の探索者の中で彼女と双子の姉は最強の部類に入る。今日の戦闘で動揺するとは思えなかった。これが実力の劣る自分たちであれば、たとえば自分がシャワー付の個室を借りるように、また同じく今日が初陣だった真壁啓一(まかべ けいいち)が高熱を出してしまったように精神に変調をきたしてもおかしくはない。しかし目の前の娘はまだ現時点ではそういうものとは無縁に思っていたのだが。
「顔色が悪いね。大丈夫?」
うん、と小さく頷くが話を続ける気配がない。こういうときに啓一だったら、とおそらく現在も大部屋の二段ベッドでうなっているだろう男のことを思った。彼なら相手の気持ちに頓着せず話し、結局は和ませるだろうに。しかし津差にはあるべき振る舞いがわからなかったからそのまま食事をつづけた。
ゆっくりと噛んで食べる津差の長い食事が終わりにさしかかった頃、「あのう・・・」と声がかけられた。
「時間があったらちょっとお酒いいですか」
津差はうなずいただけで、通り過ぎたウェイトレスに中ジョッキのビールを頼んだ。
「君らの部隊は特に事故もなかったって聞いたけど?」
「・・・小寺さんのこと聞きました?」
津差はうなずいた。小寺雄一。津差と同日に訓練場にやってきて、罠解除師として別部隊を組んでいた男は今日、初陣を迎えそのまま帰ってこなかった。部隊は崩壊しもう一人治療術師が死亡、小寺は死体も回収されていないという。
「面白い、いい奴だったんだけどね。残念だ」
「小寺さん、最初は私たちと一緒に潜るはずだったんです。でも私がいやだって言って」
津差がうなずくと、葵はせきを切ったようにしゃべり始めた。
「中二のときに初めてチョコをあげた相手が同じ雄一って名前の人で、顔もどことなく小寺さんに似ていて、チョコをあげたんですけどなんだかそれをクラス中にばらされちゃって、ずっといじめられたんです。上の学年に高野くんのこと好きな先輩がいてそのひと不良グループと仲がよくって、翠は気が強くて何度も鈴本先輩に呼び出されては喧嘩してたんですけどその頃私引っ込み思案で先輩たちには翠に手が出せないぶん私をやってやろうってこともあったみたいです。その頃は髪型も同じだったからよく似てて」
高野くんというのがチョコの彼で、鈴本先輩が不良グループだな、と頭の中で整理する。
「すっごくいやな思い出だったからわがまま言って県外の学校に進学したんです。翠は家から五分のところだったから、私が家を出るときにはまだ翠は寝てたんですよ。ひどい話ですよね、でもそうやって忘れてたんですけど小寺さん見たらあの頃のこととか、いじめられてたことも全部思い出しちゃって、で真壁さんにどうしてもいやだって。そしたら真壁さんは『そういうことがあっちゃあ仕方ないな』って笑って断ってくれたんですけど、私わかってたんです。私と翠のおかげでうちのメンバーが一番生き残る可能性が高くなるってこと。真壁さんには『落ち着けないかもしれない』って言ったんですけど実際は高野君に似てる小寺さんを危険なところにやって、『私と一緒になれなくて残念だったね、でもがんばってね』って言いたかったんです」
津差は無言でうなずいた。まだ社会経験もないだろう目の前の娘にとって、甘えと同じレベルの小さな悪意のつもりだったはずだ。だがその相手は彼女の悪意を受け止めたまま帰らない。
「私が・・・あんなこと言わなければ」
「それはそうかもしれない。でも気にすることじゃないな」
見つめてくる瞳は涙で潤んでいる。それは誰かに処方箋を与えてほしいという他力本願のあらわれだった。21歳という年齢なのか、人生経験がないのか、どちらにせよもう少しのあいだ誰かが保護しないと、今にこっぴどく騙されるんじゃないかとふと思った。そういう危うさがある。
「啓一から君たちの能力についてはよく聞いているからわかるんだけど、確かに笠置町姉妹と組めば第三層くらいまでは苦労しないだろうね。だから死にたくない俺たちは君たちと組みたがるし、君たちには選ぶ権利がある。とばっちりみたいな理由でもね」
とばっちり、という言葉に葵はびくりと震え下を向いてしまった。いかん、と反省する。
「でもそれ以前に、君が思うほど俺たちは生き延びることを重視していないと思う」
初陣の様子を思い浮かべた。敵は正式名称をコボルド、通称を青鬼と呼ばれている二足歩行の化け物だ。背丈は津差の仲間で治療術師の的場由貴(まとば ゆき)と同じ150センチ程度。しかし四肢は筋肉質で青い剛毛に覆われていた。両手には指が発達しているようで銅剣を振るってきた。その動きは津差からすれば余りにも遅く、たとえば葵の双子の姉である翠の剣筋とは比べ物にならない。緊張のためか気ばかり焦るためか、思うように動かない身体であったが十分に剣を受け止めることができた。津差の心を砕いたのは刀身ではない。その殺意だった。
自分は早晩死ぬ。殺される。今の生活を続けていれば遅かれ早かれ、確実に。
その瞬間まで、高い死亡率や個々の犠牲者の情報を知りながらも現実として認識していなかったものが結実した。ここは日々自分に対する殺意が注がれる場所で、ほんの一握りの人間しか生き残れない場所だと実感した。もう一つ、それが自分だけではなく迷宮に挑むすべての人間にとって同じだということ。
ニ撃、三撃とコボルドが銅剣で切りかかる。あるものは受け止めあるものはそらしながら津差はこれまで自分に関わった人間すべてを思い浮かべていた。両親からはじまり前の職場でのいやな取引先まで。このまま迷宮街にとどまれば、おそらく一年後には話せなくなっている顔たち。いとおしい人々。
コボルドにはフェイントをかけたりする剣技はないらしく、あくまで力技で圧倒しようと大上段に剣を振りかぶった。津差はその胴を横なぎに払った。203センチ、94キロの体格にふさわしい腕力が産む破壊力は軽々とその身体を両断した。そして津差はすべての人間に別れを告げた。
ふっと我にかえった。相変わらず葵はすがるような目で津差を見つめている。
「君たち姉妹と俺たちとで違う点が一つある。君たちは自分の意志でここに来たんじゃない、ということだ。ご両親に言われて修行の一環でここにいるんだろう? 一方俺たちは自分で選んでここに来た。俺みたいに今ひとつその理由がわからない奴もいれば、啓一みたいに自分探しの旅をしている奴もいるし、うちの内藤海(ないとう うみ)なんて詩想を得るためだって言ってる。理由はそれぞれだけど全員に共通しているのは、自分の死を受け入れたってことじゃないかな」
マスメディアで迷宮街のニュースが少ないのは、その危険性、非人道性、なにより死亡確率を事業団がすべて公表しているからだ。情報の価値は正確さと、相手が知らないことを自分は知っているという二点で生まれるから開けっぴろげにしすぎた広報を前にマスメディアは食指を動かさないのだ。それだけに国民が知ることのできる範囲での迷宮街の情報はすさまじい。
みな、もちろん小寺もそれを知りつつ来た。津差がコボルドの殺意をもって初めて覚悟を決めたように大半は「自分だけは・・・」と甘い考えでいるのかもしれない。しかし甘い考えにせよ、高い死亡率のなかに飛び込むという決意を各人がすでにしているのだ。そういう意味でここに来るという行為それ自体が自殺に近いのだと思う。現実の死に一喜一憂する必要はもうないということだ。
しかし目の前の娘に話したところで理解はしないだろう。まずもって彼女は他者に強制されてここに来たし、自分たちのように死を実感するには強すぎる。
「小寺は死んで、それはとても残念なことだ。でもここに来たからにはそれは当然のことなんだ。ここでは死はすぐ隣りにあるし、それが納得できなかったら帰る道はちゃんとある。その道を選ばずここにいるんだから、その死で自分を責めるのは小寺の選択を侮辱することになると思う。別れを悲しむのなら別だけど」
「よく・・・わからないです。・・・津差さんは私のしたことをひどいと思いますか?」
「まったく思わないな」


三十分後。酔いつぶれた妹を姉が回収して帰っていったあと、バーボンのグラスを片手に持ちながらぼんやりと携帯電話の画面を眺めていた。そこにある笑顔は毎晩連絡を欠かさない恋人のもの。「生きて、稼いで、何かを掴んで帰る」と抱きしめた笑顔を、怯えながらも確信をもって信じている女性のものだった。ふっと微笑むと電源を切った。酔って一人でいる夜に電話なんかしない方がいいと、これまでの人生で知っているから。それでも津差はわかっていた。自分が生きているうちに、それは明日かあさってかそれより先か、いつか彼女に別れを告げるだろうと。告げなければならないのだと。
「死人が幸せになろうなんてムシが良すぎるんだよ。悪いな恭子」