迷宮街の夜は早い。朝五時まで営業の居酒屋などやっていないから、夜遅くに目がさめてしまった俺は唯一のコンビニであるミニストップ迷宮街支店まで出かけていった。全国チェーンのコンビニにはいろいろ種類があるし、販売実績ではもっと上位のものもあったろうけど、ミニストップでよかったと思う。もう肌寒い11月の夜、『木賃宿』(男女共用の無料大部屋でレンタル毛布で寝る宿泊施設の通称。一階部分の大部屋だけをそう呼ぶ場合と、二〜三階の男女別一泊千円で二段ベッドが並ぶ大部屋『モルグ』や四〜六の個室フロアーもひっくるめた建物全体を呼ぶ場合がある)を抜け出してコンビニで暖かい肉まんを買っても、それを食べるためにまた木賃宿まで歩いていくのはさびしいものだ。ミニストップの軽食コーナーはとてもありがたい。
すでに見慣れたアルバイトの女性は、俺に対して「あら、よかった」と笑った。彼女は大学生くらいだろうか。見覚えはあっても会話した覚えはない。失礼のないようにあやふやに笑いながらご飯をたっぷり買い込んで軽食スペースで食べていたら目の前におしゃべりに来た。そして無事で良かったね、と喜びの言葉をいただいた。
どうしてこのバイトさん――織田彩(おりた あや)さん――が俺の初陣を知っていたのか? 訊いてみたらすぐに納得した。仲間たちの顔合わせの飲み会で道具屋のアルバイトの小林さんにからんだ時、同じテーブルにいたらしい。それはつまり、酔っ払いに迷惑をかけられた被害者だということ。謝ったら織田さんは夜中とは思えない明るい声で笑った。
初陣はどうだったか、と訊かれて簡単に説明した。簡単に、というのはまだ頭の中が混乱しているから。自分でも整理できていないので、ここに書くことも断片的になることを許してほしい。
昨日は午前六時に目を覚ました。翠の指揮下、前夜の10時からみっちりとストレッチを行っていたためか、目覚ましが鳴るより前にぱちりと目がさめた。身づくろいをして道具屋の前に集合したのが午前七時。普段は道具屋に預けている武器防具を受け取り身につけ(アルバイトは小林さんじゃなかった)、九時まで柔軟体操と身体を温める程度の運動。そしてエネルギー源として果物と野菜のジュースを飲んで地下にもぐった。ちなみに地下で食べる食料は道具屋がザックに詰めておいてくれている。専用の用紙に記入しておけば種類も指定できる。カロリーメイトとかバランスアップとかが主食で、副食としてもチョコレートや干し柿、甘納豆、干した小魚とかいろいろあって楽しい。
第一層は地下50メートルの位置にあるらしく、そこまではきちんとけずられコンクリートで舗装された階段が続いている。話には聞いていたが本当に電気が通っていて、明かりを持たなくても問題なく歩ける。地方都市の恐竜博物館の地下通路くらいの明るさだ。下りきったその距離の感覚をたとえると大江戸線のいやになるほど長いエスカレータを倍したくらいだろうか。下りきると溶岩を思わせる壁に囲まれた洞窟が始まった。下りた場所から右と左に分かれている。その道は幅が20メートル程度、洞窟の両側の壁には定間隔でライトがあるけれどヘッドランプの明かりは必須だった。高速道路には証明があるけれど、それでもライトがないと危険なように。知識では知っているが実際に降り立ってみると広い。地下だから当然気温は低く、季節にかかわりなく3〜5度だそうだ。地上では暑苦しい手袋のインナーがとてもありがたかった。
実のところ、最上層である第一層の地図は完成して無料で配布されているし新参の探索者が当面どこでどのように慣れるべきかということもセオリーとして確立していた。最初は右側の道を進み、百メートルほど歩いた場所に左手に入る扉(もちろん自衛隊が設置したもので、入念な基礎工事と頑丈な材質、そして葵の母親の魔法で通常は施錠されている。開閉には合言葉が必要で、「お邪魔します」「失礼します」というものだ。どうして「ひらけゴマ」じゃないのかと思ったが、ある程度長い単語じゃないと化け物に真似されてしまう心配があるそうだ)に入るといいらしい。内部には化け物が高い確率で巣食っているからそこで戦闘と罠解除の経験を積むべきだと掲示板に書いてあった。従うことにした。
誰が合言葉を唱えたのか覚えていない。リーダー格の青柳さんかもしれないし、先頭の翠だったかも。覚えているのは言葉に反応してゆっくりと外開きに開いていく扉を青柳さんと俺とで思い切り引き開け、飛び込んだ翠が敵を発見と叫んだところまでだった。そう、最初の戦闘は頭が真っ白になってしまい何も覚えていないのだ。気が付いたら長剣を床に放り出し、ナイフを使って足首からあるものをはがそうとしていた。それは怪物の顎だった。誰かに(翠は俺だというけれど覚えがない)袈裟懸けに切り下ろされたその怪物――正式名称をオーク、通称を赤鬼――は最後の力で俺のブーツに噛み付き、そのままこと切れたのだそうだ。すでに絶命している獣の顎を引き剥がすのは、それが子犬でも大変なことだ。それが140センチくらいの身の丈で顎の筋肉と犬歯が異常に発達した生き物で手だけではどうにもならず、ナイフで解体しなければならなかった。
かつて生き物の頭だったものをズタズタに破壊してようやく解放されたとき、吐く、と思った。立ち直れたのはそのお陰だった。明らかに吐いている場合ではないという自分に対する戒めが立ち直らせてくれた。そばで覗き込んでいた翠の顔も険しく、明らかに俺の精神を心配していた。俺が正直に大丈夫かもしれないけど自信はないと言ったら安心したようだったけど。安心したように笑った翠が児島さんと青柳さんの治療の場に援護に行ったのを見届けて、俺はようやく回復した。二人は翠がサポートする。前衛である俺は残りの二人についていなければならない。その思いが立ち直らせてくれた。
青柳さんが負傷したためにその日の探索はそれで終了とし、各人持てる限りのシェーカー(死体を持ち帰るための容器)に死体を切り取っては入れた。保存液の刺激臭でまた吐き気が復活したけれどこれがお金になるのだから仕方がない。今日の稼ぎは一人3800円だった(十の位より下は、迷宮出口詰め所にずらっと並んでいる募金箱に入れている)。
こんなようなことを聞きおえた織田さんはとにかくよかった、と笑ってから、みんな無事だったかと尋ねてきた。俺は小寺を思い出して一人死んだと答えた。
織田さんは、真剣な顔で小林さんのことは本気なのかと訊いてきた。俺は面くらい、本気も何も酔っているから何も覚えていないし、第一東京にはまだはっきりと別れていない彼女がいること、俺の先行きが不安定だし遠距離だからこのまま続けるのは難しいけど、だからって次の人をすぐに探す気持ちにはなれないことを説明した。気楽なのは、お世辞にも女性に好かれるようなご面相じゃないので小林さんも実は俺のことを・・・というようなうぬぼれた想像から無縁でいられることだ。
織田さんは安心したようにうなずき、少し黙った後、私たちはあなたたちと親しくならないように気をつけているの、とささやいた。
「私は市内の大学生で、ここではバイトも安く部屋を借りられるから第一期の最初から暮らしてる。小林さんもそう。第一期は延べ15,000人いたらしいけど、最初の頃は私たちも仲良くしてたわ。私はもてなかったけど、探索者と付き合う人もいたみたい。でも、そうやって親しくするのは辛いことだって気づくのにはそう長いことかからなった」
文字で再現するとわざとらしいからやめておくけど、流れるような京都弁はきれいだった。俺はしんみりと聞いていた。織田さんはある日ね、と続けた。
「ある日ね、お店に来なくなるのよ。明らかに私のシフトにあわせて缶コーヒーを買いに来ていた人が。木賃宿の前の自動販売機でも売ってる缶コーヒーを、これがなきゃ始まらんて言いながら買いに来てた人が来なくなるの。当然私たちは十分お金を稼いだので故郷に帰ったんだと思おうとするわ。あんなに通いつめておいて、故郷に錦を飾るのに私に一言の挨拶もないなんてひどいよねー、ってバイト仲間と笑ったりするのよ。――みんな涙目なんだけどね。でも、あるときお店のお客さんの会話にその人の名前が出たのよ。ああ、あいつの部隊がやられた化け物かって」
慰めたかったけど、俺にその資格がないことはよくわかっていた。来月死ぬかもしれない男には。
「そういやあいつらの死体は見つかってないらしいな、って」
モルグに戻って横になってからも、俺は長いあいだ眠れず天井を見ていた。話し始めたとき、その声につらたのかバックヤードから顔をのぞかせた店長の表情を思い出していた


ブーツが少し小さかったので(地下は分厚い靴下を履くことを忘れていて)新しいものを道具屋で注文してから、午後は訓練場で津差さん青柳さんと打ち合った。翠は訓練場の端っこのほうで迷宮街でもっとも強いと評判の越谷さんという方に稽古をつけてもらっていた。技量では同レベル、リーチと筋力でははるかに上の相手に何度も挑んではやられていた。翠にも昨日のことは何かをもたらしたのだろう。


夜、モルグでテレビを見ていたとき、津差さんが声をかけてきた。一緒にいたのは恩田信吾さんという、俺と同い年の中立の戦士だった。確か小寺と同じ部隊を組んでいたはずだ。彼らの部隊は壊滅し、罠解除師である小寺と治療術氏を失った。明後日に小寺の両親がやってくるらしい。リーダーである恩田としては詫びようもないが、せめて遺体なりと返したいということだった。そこで遺体の捜索隊を組むのだという。恩田さんの話を聞いた限りでは小寺の死体は入り口から30メートルほどのあたりにあるはずだ、という。そのあたりはほとんど怪物も出歩かないし、小寺を殺したのが骸骨と呼ばれる人肉を食わない化け物らしいので、まだ遺体が無事にある可能性は十分にあるのだという。しかし恩田さんの部隊は最初の敗戦で士気を喪失し、ほとんどが全員が迷宮街を去ってしまったために津差さんに頼んだのだそうだ。
もちろん俺は二つ返事で引き受けた。