09:07

アベルの音には予感があった。覗き窓からはそのとおりの男の顔が見えた。
「毎度」
この男がここ京都で染まった唯一の言葉遣いだ。みんな多かれ少なかれ、とくに北陸や中部、そしてなぜか東北の出身者は一様に語尾に「〜や」がついていく中でこの男だけは意地でも共通語だった(うかつに関西風の発音になるとわざわざ言い直したりしていた)なかで、たぶん本人も気づかずに感染してしまった西の商売人の挨拶。
「おはよう、真壁さん」
真壁啓一(まかべ けいいち)はにっと笑った。昨日の激戦の疲れはすっかりぬぐわれたらしい。
「おはよう。翠いる?」
双子の姉の在非を問う。笠置町葵(かさぎまち あおい)は首を振った。いや、今朝早いうちから出て、三時ごろに戻るって。真壁は意表を突かれた表情をし、そして残念そうに腕を組んだ。
「翠に預けている本を取りに来たんですよね?」
ああ、葵は日記を読んでくれたんだね? さすがに翠は読んでないか、と納得したように笑う仲間を部屋に招じ入れた。今朝出かけるときに翠に訊いたんですよ。真壁さん来るかもしれないよって。そうしたら、勝手に入ってもっていってもらっていいって言ってましたよ。
「へ? 俺は自分の留守中に部屋に入られるのは怖いけど・・・。まあ、女の部屋にはエロビデオはないだろうから別に探られて困る腹もないってことかな?」
また返答に困ることを。苦笑して双子の姉の部屋に通し自分は共有の部屋にとどまった。そして畳まれて壁に立てかけてある段ボール箱を手にとった。
いま姉の部屋にいる男、彼が預けた本を取りに来ることはその日記から知っていた。姉は知らなかったと彼は思っているようだったが、わざわざそこだけぽっかりと読み落としてでもいない限り姉も知っているはずだった。何しろ疲労で倒れそうだった自分たちは死者の確認をしないまま部屋に戻り、彼の文章で犠牲者の名前を知ったのだから。そこだけ読んでいてその後の数行を読んでいないとは常識的に考えてありえない。
ではどうして姉は背突かれるように家を出て行ったのか。眠いだろうし近所迷惑だとわかっているのに昨夜遅くから部屋の掃除をはじめたのはなぜだったろう。彼が来たら使うように渡してくれと託されたこの段ボールはどう考えてもわざわざコンビニからもらってきたものだった。
姉の部屋に段ボールを持っていく。これ、よかったら使いますか? 男は無邪気に笑った。助かった!
共有の部屋に戻りコタツに足をさしいれた。隣りの部屋からは相変わらず作業の音が聞こえる。
もう逆転の目はないだろうか? ない。他の女のことで頭がいっぱいの男と一緒にいて楽しいはずはない、とは隣りの男の言葉だった。自分もときどき感じる(もっとも自分の場合は、「他の女」ではなく「他の女が象徴する何かガクジュツ的なこと」だとわかるから我慢できるのだが)から納得できた。だが、姉とあの男ではダメだ。相性は悪くないと思うけど、肝心の男はいま東京にいる恋人のことしか考えていないと傍から見てわかる。
手無しだな。あきらめてミカンを手にとる。