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さ、次の術をと鹿島詩穂(かしま しほ)は気軽な気持ちで視線を移した。昨日の第二層の激戦とは違い、心身ともに余裕があるのはこの日のためにさらに投入された『人類の剣』たちの存在感のお陰だった。自分の師匠や兄弟子、初めて挨拶した数人。彼らが戦闘の緊張感を少しずつ肩代わりしてくれて、自分もそうだし探索者代表として参加した二部隊ものびのびと戦えている。これは、昨日第三層のような特別な事情がない限り(今のところないような気がする)今日は死者なしで終わるかもしれない。
移した視線が信じられないものを見た。人間より少し小柄な敵の集団の後方に何か巨大なものが生まれようとしていた。思わず手が口元に伸び、悲鳴を押し殺す。
直立すれば二メートルにもなろうかというその巨躯は青銅を思わせる光沢のある皮膚で覆われている。着衣のない四肢は人間とはまったく違う原理で構成される筋肉が浮き出ておりその怪力を想像させた。巨大な身体に比して頭部は小さいのだが、左右に伸びる長大な角(羊の角のようにゆるい螺旋を描いている)のために全体としてはバランスが取れていた。鹿島はそれを文献の中で読んだことがあった。自分の使用できるような術は全て圧殺する特性を秘めた、自分が操る魔法それ自体で出来上がっているような凶暴な存在。一般人から畏れられる自分たちですら畏怖を篭めてその呼称をささげる一族の一角だった。それを悪魔と呼ぶ。
「青い悪魔・・・」
同じ衝撃を他の『人類の剣』たちも感じたらしく恐怖の波動が走り抜けた。女帝と呼ばれている探索者の横顔は硬直し小刻みに震え、それは遠目にもその生き物の力を実感したということを示している。やっぱりこの人センスがいいなとちらりと思った。
ざ、と波が広がるように戦闘相手の化け物たちがひれ伏した。眼前の脅威である自分たちの存在をすっかり忘れているその行動は、彼らもまた青い悪魔に何かの想いを抱いていることをうかがわせた。おかげで茫然自失の探索者サイドも助けられた。とはいえ自分に背を向けてひれ伏している生物に剣を突き立てる気力はないようで、こちらもまた呆然として依然として膨らみつづける青い生き物を見つめている。
「ああ、だいじょうぶよ。気にしないで目の前のを殺してって」
一人のんきな声は理事、笠置町茜(かさぎまち あかね)のものだった。いい機会だから実験できなかった術を試してみただけ。猿渡さんはソコルディは習得していなかった? 問い掛けられて鹿島の師匠が首を振った。そして興味深そうに青い悪魔を眺める。
「イタコの術・・・あれが」
世界のどこかにいる生物から、その生物を定義する情報を抜き出して別の生物に埋め込むという禁術の一つだという。そのごく初歩のもの、ある知識だけを抜き出して自分に埋め込むものはイタコとして現在の日本でもたまに見られる(九九%はインチキだったが)ものだ。それをつきつめて、生き物を構成する情報をコピーしてしまうことで別種の生き物に変えてしまう。それだけではなくコピーするときに自分の下僕として敵を殺すように命令を書き加えることもできる。
これが禁止されるのも当然だし、迂闊に実験できないことも当然だった。コピー元は定義情報を抜き取られることでこの世のなんでもない、たんなるたんぱく質とカルシウムの液体に変わってしまうわけだし(だから、たぶんこの世のどこかで一匹青い悪魔が消滅しているはずだ)、媒体として選ばれた生き物は自分の定義情報を上書きされるわけだから術が切れてももとには戻れない。さらに媒体を自由に動かすことでどんな犯罪も可能になってしまう。こういうものを見るたびに、術を生み出した先人たちに対する嫌悪感に身が震えるのだった。
「うーん!」
と、こちらはそういった鹿島の抱いている嫌悪感や罪悪感とは無縁の声で理事がつぶやいた。
「理想を言えば蚊とか蟻とかどこでもいる生き物を霊媒にできたらいいんだけど・・・とりあえずあのサイズの霊媒がいないとむりだなあ」
なんて人だ、その力と精神に恐怖すら感じながら凝視する視界の端が爆発した。ひれ伏した敵集団の真中、すでに三メートルを越える大きさにまで膨らんだ青い悪魔を中心として猛吹雪が生まれている。魔法の原理でできているあの化け物は自分が術で傷つかないことを知っている。だから自分を中心にして吹雪を起こすことになんのためらいもない。ひれ伏している怪物たちが瞬時に氷の彫像に変わっていった。
術の範囲から外れた化け物たちは愕然と顔を上げ、次いでわれ先にと洞窟の奥、横穴の奥へと逃げていった。
「これでしばらく一休みできるわね」
理事はそう呟いてちらりと青い悪魔へと視線を送る。周囲を見渡し殺すべき相手を探しているらしい青い悪魔が突然消えうせた。溶け崩れるように形を失い、それまでの巨躯にふさわしい大量の粘液が地面にぶちまけられた。唐突に洞窟内部に静寂が生まれる。化け物たちはかなり遠くまで逃げていったらしい。