16:30

「片岡さん、どうしたんですかその顔」
お先に失礼します、と声を残して裏口を抜けた小林桂(こばやし かつら)は、商品を納入にきた鍛冶師の顔を見て驚きの声を上げた。先週見たときは健康的に日に焼けていた30代なかばの男の顔は紫色に変色して、右半分が大きく腫れている。
「いや、おととい大木のところのやつらと喧嘩になっちゃって」
うわあ、と眉をひそめる小林に、片岡宗一(かたおか そういち)は笑って見せた。迷宮探索事業団に雇われ、鍛冶師としての訓練を積む前はヤクザだったという噂が流れるほど、男くさく凶暴とすらいえる顔の造りだったが、少なくとも小林たちの前では笑顔しか見せないのであまり恐怖を感じていない。
「痛そう…・…でもどうして喧嘩なんて」
「俺の仲間が大木の所の女の子に声かけちゃって、酔ってたから相当失礼にからんだらしいんだな。俺もあとから事情を聞いてそりゃおまえが悪いと叱ったんだけど。まあその時は楽しく乱闘したよ。たまにはいいな」
そういって、ワゴンの荷台からぼろ布に包まれた棒状のものを一本取り出した。重そうに振りかぶる。
「大木もこんなもの毎日振って化け物と戦ってるんだよな。いやあ、よくこの程度の怪我で済んだもんだ」
まあ、あいつの顔も俺の半分くらいはひどいことになってるけど、とにやりと笑う。小林は内心辟易して、しかし顔だけはにこやかにお大事に、とだけ言ってその脇をすり抜けた。今度ひまな時間が――と追いかけてくる声を聞こえないふりで足を運ぶ。
自分に好意を持ってくれていることは知っている。悪い人間ではないことも知っている。それでも騒がしさ、陽気さ、そして時々見られる幼稚な粗暴さは彼を特別な人間として考えさせてくれなかった。もっとこう、昼の楽しみ、たとえば運動や旅行や太陽の下でしかできないような種類の楽しみではなく夜の楽しみ、本を読んだり音楽を聴いたり映画を見たり絵を――はっとして記憶を断ち切る。
そういう種類の思い出から逃げ出して、自分はこの街に来たのではなかったのか。
朝からずっとじめっとした天気だ。南から低気圧がのぼってきているらしく、夕方から夜にかけて雨になると天気予報では言っていた。あいにく傘を忘れてしまっていた。アパートに一度戻り傘を取ってからスーパーに買い物に行くか、それとも買い物の間くらいはもつだろうか? と南の空をにらむと小さな人だかりに気づいた。自分の進む方向、歩道の脇でイーゼルの前に座る誰かとそれを囲む数人がいる。
まさか。
激しく脈打つ鼓動を感じながらゆっくりと足を進めた。このままだとあと数十歩でイーゼルの前に座る誰かの顔が視界に入る。
ぽつ、と雨粒が頬を打った。た、た、という雨の音はすぐに連続になり途切れがなくなり、通行人たちが小走りになった。よくある夕立の降り方。でも、これは長く続くかもしれない。小林は雨も気にならないようにイーゼルの人物を見つめていた。見物人たちは蜘蛛の子を散らすように消え去っていた。
彼(小柄なので女性かとも思えたが、近くに寄ったらまだ高校生くらいの男の子だとわかった)は突然の雨にも慌てた風もなく、それでもすばやい動きで書きかけの絵をスケッチブックにはさみ、肩下げかばんに収めた。そしてイーゼルをたたみ画材も同じくかばんにしまう。それが済んでから、ゆっくりと自分の身支度をはじめた。変わっていない、と小林は思った。最後に見たときには中学生だった顔つきは、最後の思い出から三年だろうか? ずいぶん大人びていたけれどはっきりと面影が残っていた。ずっと昔、仲間意識を、いや、母親の気持ちさえ感じながら見つめていたその顔。あの頃も、彼にとっては何よりも絵が大切だった。視線をその顔から離せないまま、ゆっくりと近づいていく。
視線を感じたのか、ふっと彼が顔を上げた。視線がまっこうからぶつかり合う。小林は息を呑んだ。
しかし向こうは一瞬後に視線をそらし、彼女とは逆方向へと歩いていった。苦笑がもれ、そして小さくため息をついた。覚えていないのか、忘れることにしたのか。どちらにしても哀しかった。哀しむ資格はないとわかっていても。