今日の女帝。
「まさかこんな下賎なところに住まうハメになるとは思わなかったわ」(わずかな着替えだけ持って木賃宿を見上げたセリフ)
今日は探索の日。とても危ない局面があった。何度目かの戦闘で死体食いといわれる小柄な生き物(骸骨やなにかと同じく、死体が動かされているようだ)と戦闘を交えた。こいつは筋肉を痙攣させる成分を爪に仕込んでおり肌を切られてそれを注入されると身体が思うように動かなくなってしまう。全力疾走のあとで太ももがガクガクと震えるような状態が全身にあると思えばいい。回復するためには活性剤のように注射器状の中和成分を打つのだけれど何しろ全身が痙攣しているから正確に血管に針を刺すことができない。ということで治療術師が術で直すか、周囲に危険が迫っていなければいちど麻酔薬(テレビドラマの中のクロロホルムみたいなもの)で意識を失わせ、それから注射するようになっている。
今日の死体食いとの戦闘、こともあろうに同時に青柳さんと常盤くんがその毒を受けた。なんとか死体食いたちは切り殺したのだがその治療で判断ミスを犯してしまったのだ。青柳さんは盾なので早く回復させなければならないから児島さんが術をかけてすぐに回復させた。一方常盤くんは俺が押さえつけて翠が薬をかがせて、それから注射した(練習のために翠がやった。三度失敗した。常盤くんも可哀想に)。しかし麻酔薬が醒めるまでには10分程度の時間がかかる。10分ものあいだ、怪物の接近を感づいていくれる常盤くんは眠っていたのだ。五分でそのことに気づいた。三人で三角形に陣を張り注意をしながら壁際まで常盤くんを引きずって警戒する。常盤くんがうめき声を上げてふっと気が緩んだその一瞬、それを(おそらく機会をうかがっていた)怪物に見抜かれたのだろう、突然の強襲を受けた。
振り向いた視界には人間よりすこし小さいサイズのクマがいた。そしてその足元をぴょんぴょんとウサギの形をした白い毛皮が飛び跳ねている。死体食いと同じく痙攣毒をもち鋭い爪と強い力のクマと、速くて予測できない動きと鋭い牙を持ついなばという、考えるだに嫌な取り合わせだった。しかもどちらも五〜六匹以上はいた。
それから先のことは実ははっきり覚えていない。無我夢中で常盤くんの前に踏ん張りいなばの突撃を四回受け止めた。無傷なんてのは最初からあきらめて首の血管、鎖骨、腕の腱、足の腱、股間に来る打撃だけかわしてあとはされるままになった。それらが経過した直後に突進してきたクマに跳ね飛ばされた。たたらを踏んで踏みとどまったところでクマの一匹にかぶとを横殴りにされる。そこで意識を失った。
それは五秒くらいだったらしく、目を開いたら戦いは終わっていた。態勢を立て直した葵が広範囲の化け物だけを一発で殺し尽くす術を使ったからだ。翠に抱えられていたが彼女もこめかみを切ったらしく顔半分が真っ赤に染まっていた。水ばんそうこうですぐに止血はしたものの、傷が残るかもしれないという。綺麗な顔に傷いって、ご両親が悲しむなと言ってようやくほっとしたように笑った。そのとき気づいたけど泣いていたらしい。優れた剣士でも痛みは別なのだろう。もともと俺たちに比べて怪我を負う回数が格段に少ないから痛みにも慣れていないのだろうな。
それより重傷は青柳さんだった。この人のところにもクマが殺到し、とても守りきれないと判断したこの人は葵を抱え込んで背中をえぐられるに任せたのだ。毒気に痙攣毒、そして出血多量。必死の思いでふりかけた水ばんそうこうと児島さんの治療術、どれが欠けても危なかったのだと翠が教えてくれた。
本当に、危なかった。俺たちじゃなければ、そして誰かの運勢がほんの少し悪ければ今ごろ誰かしら死んでいたと思う。
そこで気がくじけて早々に退散した。青柳さんのツナギの背中もズタズタになっていたし。
木賃宿に戻ったら、庭の一角、神田さんの日曜大工スペースから犬の鳴き声がした。見るとそこには真っ黒なでっかい犬がいて、ログハウス風の犬小屋があった。星野さんの娘さんである由真ちゃんと高崎さんのお子さんの隆一くんがその犬と戦っていた。犬とはいえ一メートル以上あるそいつにはかなわなかったみたいだけど。高崎さんに訊いたら、なんでも徳永さんの社宅(官舎?)が立て替えなのでご家族はアパートに引っ越し、その間飼い犬のセリムは木賃宿であずかることになったらしい。この街ができてまだ四年経っていない。それなのにどうして官舎を建て替えるのかと訊いたらこれからさらに増えるこの街の電力消費を抑えるために一軒一軒を天気熱による温水と発電の機能などを備えたものに替えていくのだそうだ。なんだっけ? OMだとか、OLだとか、なんとかソーラーという工法らしい。これも後藤さんの提案でバックの商社の力、何より街全体を変えてしまうというスケールメリットで破格の建設費と工数を実現したのだとか。そのかわりにこの街をその工法のモデルタウンにするらしい。後藤さんというのはやることがなんでもスケールがでかいと思う。
ここで最初の真城さんのセリフになる。セリム(徳永さんの家の犬)が木賃宿に来るならあたしも! ということでしばらくの間木賃宿の六階に部屋を取ることにしたのだ。でもロイヤルスイートにある洋服を全部移動させたら部屋に入りきらないので向こうもそれまでどおりお金は払うという。奇特な人だな。
それにしても下賎て。