06:13

遠ざかる背中に何も言えずに見送ってから、殴られた頬に手を当てた。痛みはなかったが、それ以上に罪悪感が心を蝕んでいた。
「いやあ、珍しいもの見せてもらったよ」
真壁啓一(まかべ けいいち)はぎょっとして周囲を眺め渡した。誰もいない。視線を下げるとログハウス風の犬小屋の中から黒い犬と女性の顔がこちらを眺めていた。その想像外の情景に思わずのけぞる。
「いやその格好もかなり珍しいですよ。――なにやってんです? そんなところで」
ちょっとね、と言いながら真城雪(ましろ ゆき)は小屋の入り口から出てきた。――出てこようとした。小屋の内部で犬がつぶされているのだろうか、きゅーんという声が聞こえてくる。
「ほら言ったろ? 私たちと外の人では一番大事なところでズレが出るんだって。翠ちゃんにしとけばいいのにさ」
真壁は苦笑して、コートについた芝と犬の毛を払ってやった。それはものすごく翠に失礼な発言だと思いますよ。それに俺、そろそろ社会復帰しようと思います。ズレがあるのがわかったからには俺が外の人に戻らないと。
どんな想像ともちがい、女帝と呼ばれる女の顔はぱっと明るくなった。そうか! と満面の笑みを浮かべる。
「あれ? 俺っていらない子でした?」
おどけた言葉にバカね、と笑った。大事だから、明日死ぬ場所にはいて欲しくないに決まってるじゃないか。お前が死んでもやっぱりあたしは落ち込むからさ。その言葉に真壁は表情を改めた。
「ああ、ええと、越谷さんのことは――」
女帝は穏やかに微笑んでうなずいた。朝の光の下では泣きはらした目がはっきりとわかった。とうとう健二まで死んじゃったよ。これで本当に一人になっちゃったな。真壁は何も言わなかった。女帝真城雪が京都にやって来た理由、噂では聞いていたが本人の口から確認したことはない。しかし誰に対しても好き勝手に振舞うこの美女が唯一おとなしく従う姿を見てもその関係の深さは想像できた。
目の前で越谷健二(こしがや けんじ)という次元の違う戦士の死を見たとき、それがこの街なのだとわかった。どれほどの実力があろうが依然として死が隣りにいる街。自分が死ぬその時まで大事な人の死を見つめなければならない街。
迷宮街に縛られる、とは眼前の女性がしばしば口にする言葉だった。昨日死んだ男性――花と宝石が好きで怖い顔に似合わず気配りをしていた――その死をもって今また実感する。人の死は心に降り積もり、いま自分が生きていることへの後ろめたさとその仲間に入る日を待ち望む気持ちを生む。そうして迷宮街に文字通り縛られる。大事な人を失いつづけるこの女性にもいつか離れられる日がくるのだろうか。
あたしみたいになったら遅いんだよ。
本当に口に出したのか、それとも自分の想像の中での言葉なのかわからない。ただ想いを見透かされたことにぎょっとして女帝の顔を見つめた。今度は実際に口を開いた。
「翠ちゃんをだまして連れて行ってあげてくれないかなあ。お前にはわからないかも知れないけど、あの子はきっと遅かれ早かれ死ぬよ。お前には彼女がいるだろうから抵抗あるだろうけど、この街から引き剥がしたあとでふっちゃえばいいんだし」
「・・・それを俺にしろと?」
ムリならいいけどね。できるとも思ってないし。その言葉にすみませんと謝る。
探索の準備を整えた一団が通り過ぎていく。緊張の表情からまだ日が浅いグループだとわかった。なんとなく見送ってから女帝は大きく伸びをした。