ゆっくりと上げた脚、かかとが天に向いた。片足は大地に、片足は天にと伸ばされた黒田聡(くろだ さとし)の身体はまるで一本の棒のようにも見える。精鋭四部隊の中では『地下限定で』最強の戦士と呼ばれていた黒田だったが実際の身体能力は垂直に上げた脚が微動だにしないその様子を見てもわかるように高い。ゆっくりと脚を戻し、地に付くと同時に高く跳躍した。そのまま身体を丸めくるりと一回転をする。脚の着地は跳躍前とまったく同じ場所になされていた。おお、と見物人たちからどよめきが起こる。
訓練場は常にない喧騒に満たされていた。明日からの工事作業にほとんどの実力ある部隊が駆り出される結果本日は優秀な戦士たちがみな休みをとっており、イベントが好きな女帝真城雪(ましろ ゆき)の呼びかけに応えた戦士たち70人あまりが集まって剣術トーナメントをすることになったためだ。普段、自分たちの部隊の戦士たちしか見ていない後衛たちも北酒場謹製の弁当を片手に見物に集まりお祭りの風情がある。
調子よさそうですねえ、と人垣から声がかかり、黒田はそちらを向いた。頭一つ飛び出た高さで進藤典範(しんどう のりひろ)が笑っている。第二期のなかでも優秀な戦士を20人数えたら必ず名前の上がる男だった。当然今日もエントリーしていた。
「向こうで野村さんが剣と空手の複合演武やってましたよ。切り込みと蹴りが同時にしか見えない速さです。狂ってるな」
野村悠樹(のむら ゆうき)はなんといったか聞きなれない空手の流派の師範代の資格をもっている戦士だった。この街には修行の一環として心身の鍛練のために来ているという変り種の一人だ。黒田が優勝するにはどこかであたる可能性が高い。で? 進藤は出るの? と問い掛けたら彼は笑ってうなずいた。うちの部隊前衛二人いなくなっちゃいましたから、ここで評判をあげて優秀な戦士をスカウトしないとです。
おはようございます、と声をかけられた。声のもとには同じく第二期の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)が歩いてきていた。練習用の厚ぼったいツナギを着けて木剣を担いでいるところを見れば、彼も参加するつもりなのだとわかる。その実力を考えれば当然だろうと思わないでもないが。トーナメントは73人だから6回は勝ち抜かなければならない寸法になる。73人のうちに本当に警戒しなければならないのは30人程度で、真壁はその30人に入っていた。進藤は入っていない。
やる気十分だね、という言葉に真壁はいい笑顔を返した。
「当たり前じゃないですか。この街を去る直前にこんなトーナメントって、まさに俺のためにあるようにしか思えませんから。俺が優勝して『ああ、真壁ってすごい男がいたよ。結局あいつにはこの街は小さすぎて出ていっちまったがな』とみんなが俺を伝説にするためのイベントでしょう? これって」
黒田は苦笑したが、観客の一角の失笑がさらに大きかった。三人はそちらを向く。西谷陽子(にしたに ようこ)という魔法使いがにこにこと三人を眺めていた。
「へええ。西谷さんが非番のときにこの街にいるなんて珍しいですね。ところで何がおかしいんですか?」
進藤に問われ、おっとりした笑顔の女性は一方の壁を指差した。先ほどまでなかった白い張り紙は、トーナメント表だろうか? いま組み合わせが貼られてきたの見てきたんだけどねー、と含み笑いをする。
「真壁くんの一回戦の相手はうちのところのオガで、オガに勝っても二回戦は津差さんだよ」
精鋭四部隊の戦士の一人と、第二期どころか迷宮街屈指の怪物。かわいそうに、と送った視線の中で真壁の笑いが凍りついていた。
 

トーナメントを書き出した模造紙の前で進藤典範(しんどう のりひろ)は立ちすくんだ。寸前まで楽観視していた。訓練場では自分はそれなりだと理解している。優勝はもちろんムリでも組み合わせ次第なら二回戦くらいまで進めるのではないか? そう思っていた。しかしそれも自分の組み合わせを見るまでだった。トーナメントの一番最後、一回戦は同じ時期に参戦した戦士でたいしたことはない。しかし勝ち上がった後にぶつかるシード選手の名前が問題だった。
橋本辰。
訓練場の教官。
「これトーナメントする意味ないじゃん・・・。ネコの喧嘩にトラが出てきたよ」
隣りに来ていた倉持ひばり(くらもち ひばり)がぽんと肩を叩く。まあ待ち時間なしで稽古一回つけてもらえると思えば? その言葉に弱々しくほほえんだ。
「あーごめん、それギャグ。いくらなんでも橋本さんは出ないよ」
通りすがりの神田絵美(かんだ えみ)――両手に飾り付けを抱えている――が申し訳なさそうに言った。進藤の顔がぱっと明るくなる。おお! そうなんですか! でも代わりは誰ですか?
「そこに来る奴は、いまごろ仕事サボって新幹線に乗ってる」
「・・・国村さん?」」
肯定の笑顔に肩を落とした。やっぱり稽古つけてもらうことには変わりないのね、との倉持の言葉にうなずいた。
 

普段から小さいその身体はさらに縮こまっている。電話の相手は商社の買取責任者だから、その社員でもある三峰えりか(みつみね えりか)にとっては上司にあたった。そして何より、鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)も顔を見かけたことがあるが並みの上司という生き物よりもはるかに威圧感に満ちた顔だった。
「はい、すみません。はい、はい。・・・はい、気をつけます。はい、・・・ありがとうございました」
携帯電話を切ってふうと息をつく。しょんぼりした肩を、いたわりをこめて見やった。
「非番の日にまでお疲れ様。なにかミスしたの?」
いいえ、と若い研究者は首を振る。このイベントのことで怒られちゃいました。その言葉に鯉沼の顔が険しくなった。自分たちが訓練の一環としてなにをしようと商社には関係ないはずだ。それも、三峰は首謀者ですらない。どんな理由と正当性があってあの男はこんな小さな娘を怒るのか。一体何様のつもりなのだろう。事情を問いただそうと開いた口がそのまま止まったのは続いた言葉を聞いたからだ。
「せっかくそんなことやるんだったら、うちからなんでも賞品持っていけって」
あ、あら、そう、と気の抜けたような鯉沼の言葉。それはそれで何を考えているのかわからない。
 

離れた床で柔軟をしていると、視界に見なれたブーツが入った。顔を挙げると仲間の女戦士である笠置町翠(かさぎまち みどり)が見下ろしている。当然のようにツナギに身を包んでやる気十分だった。
「真壁さん、聞いた? 賞品がつくって」
「へええ。どんなの?」 開脚した右足に上体を倒しながら真壁啓一(まかべ けいいち)問い返す。
「優勝者が国内どこでもオッケーの温泉ペア宿泊券2泊ぶん」
「ほほう」
「ベスト4がディズニーランド/シーペアチケットとホテルミラコスタ優先ペア宿泊券」
「すげえな」
「ベスト8がUSJのペアチケット。あたしはベスト8狙いでいくよ」
真壁は顔をあげた。見下ろす女の笑顔はさっぱりとしているように見える。
「これ獲って、孝樹兄ちゃんと由美さんにプレゼントするんだ。この前のお返しにね」
そうか、と今度は左足の上に倒しながらうなずいた。
「それで片思いはおしまい――ありがとうね」
身を翻し走り去っていく後姿を暖かい気持ちで見送る。
 

田中元康(たなか もとやす)はこの街に来てまだ二週間の戦士でしかない。実戦の経験も街での知名度も明らかに低いことはわかっていたがこのトーナメントに参加したのはやれると思ったからだ。相手を絶命させることを目的とする地下の戦闘ならばともかく、相手の急所に当てることで勝敗を決定する模擬戦闘であれば、小学生のときからずっと剣道を学んでいる自分に一日の長がある。これによって名をあげもっと上位の部隊へ移動してやるというのが目的だった。だから、一回戦の相手が津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という迷宮街でも評判の巨漢だと知って喜んだのだ。
しかしこれは。開始線の向こうに立つ物体に冷や汗をかく思いだった。これはいくらなんでもあんまりだ。身体が大きいというたったそれだけのことがこれほどまでに人の心をかきみだすとは。弱気になる心を叱咤した。だからこそ自分が彼を華麗にしとめたときの効果は大きいはずだ。心を落ち着け舌なめずりをする。
「始め!」 審判役の戦士の声に、挨拶代わりに軽く木剣を打ち合わせた。
「な!?」
ほんの軽く打ち合わせただけなのに。同じ木剣なのに。ちょっとした触れ合いの結果とは思えないほどに剣先が揺らされ、手首が翻弄される。そして強い衝撃が走った。観客席がどよめいた。
空を見上げる。天高く、地上5mくらいだろうか。そこで回転している棒は、あれは自分の木剣なのだろうか? 確かに手元にはもうないのだが、いったいいつ弾き飛ばされた?
切っ先を自分の喉元にぴったりとあてたまま巨漢は軽く腕を伸ばし、落下してきた木剣を受け止めた。歓声が沸きあがった。
 

「はーいお次はー!」
拡声器の声が会場の喧騒を圧した。しん、と場内が静まる。
「Aグループで真壁啓一(まかべ けいいち) V.S. 小笠原幹夫(おがさわら みきお)の試合ですよー! 注目、注目ー!」
突然のそのアナウンスに真壁は立ちすくんだ。今までこんな紹介はなかったはずだ。注目のものだけは知らせることになっていたのかもしれない。であれば、自分のカードは注目の一戦なのだ。すこしはギャラリー増えるかな、と見渡したらすでに人垣ができていた。背伸びすると、どうやら他の会場も一時試合を中止しているらしい。そりゃちょっと大げさすぎないか、と思ったがお祭りは嫌いではない。歓声に対して手を高く差し上げた。観客がどよめく。楽しそうに手を叩いている真城雪(ましろ ゆき)、その隣りに仲間の女戦士を発見してそちらに歩いていった。
「がんばれ! 真壁さん! 一矢報いろ!」
一矢報いろか、と苦笑する。笠置町翠(かさぎまち みどり)は出稽古に赴いた先で真壁の対戦相手である小笠原を間近で見ているはずだ。何かヒントはないだろうか?
「んーとね、タイプは真壁さんと同じくアウトファイターだけど、リーチと筋力とテクニックは向こうが上、スピードと反射神経は真壁さんが上だよ」
「リーチ長いよなあ」
ちらりと視線を送る。身長は180cmくらいでこの街の前衛では平均的だが、手足が非常に長い。手足の長さなら津差と同じだけありそうだ。
「懐に飛び込む手だね」 翠の言葉にうなずく。
よーし行ってこい! と女帝が背中を強く叩く。力を注がれた気がする。
 

目の前の男の日記は読んだことがある。自分はまったく登場しないから(訓練場でも早朝派の彼と夜型の自分とでは出会ったことがなかった)検閲のつもりはなかったが、読んでいて一つ印象に残ったことがあった。その観察力の確かさだ。この街で生死の際に身をおきながら、そういった付帯状況にとらわれずものごとを正確に洞察して判断している。それは一人の戦士としてよりたとえば教官として非常にすぐれた資質に思えた。だからこの街を去ると聞いて残念に思う。
ともあれ今は敵手として目の前にいる。その反射神経とスピードでは自分を圧するため、ゆめゆめ油断はできなかった。
この手の人間は、と思う。この手の人間は、そのすぐれた観察力と洞察力考察力のために並みの人間よりも緻密で多岐にわたるパターンを想定してそれに従って行動する傾向があった。自分との攻防でもそれは活かされるだろう。だからこそ、初見でのみ使える手があった。できれば対津差戦まで温存したかったが、津差は真壁ほど思考が柔軟ではない。一度見せるくらいなら通じるかもしれない。セコンドについている西谷陽子(にしたに ようこ)にタオルを渡してお互いの拳を軽くぶつけた。
開始の号令とともに小手調べで数度の斬撃を繰り出す。軽々とついてくるその反射速度に感心しながら(なんといっても、自分の数分の一しか戦闘経験がない男なのだ!)少しずつ速度を上げていった。それにもしっかりとついてくる。
このまま、このまま、表情にすこしずつ真剣さをにじませる。このまま速度を上げていき、自分はついていけなくても真壁は対応できるところまで速度域を移す。そこでこの戦士は行動を起こすだろう。
主導権が真壁に移った。立て続けの速い切り込みに必死の形相で対応しながら、少しだけ木剣を持っている腕を宙に遊ばせた。さて、この小さな隙に踏み込んでくるか?
来た! 第四層のどの化け物よりも、もしかしたらエディよりも速い踏み込みでその身体が自分の両手足の懐に飛び込んでくる。このまま一発タックルをいれて体勢を崩せば真壁の勝利だ。少なくとも彼はそう思ったはずだ。木剣を手首だけで振った。狙いは真壁の木剣の切っ先。そのまま手放して、一瞬だけ真壁の木剣を封じる。
左手を真壁の胸に。右足をその両足のさらに後ろに。右手を真壁の額に。そして両手を強く押す。思わぬ反発に重心が後ろにさがった真壁の身体、後じさろうとした脚が小笠原の右足につまずいた。
真壁は押されて大きくしりもちをついた。そのまま額に当てた手に力を入れて地面に組み伏せた。胸に当てていた手を抜き手の形にしてその喉仏にぴったりとつける。二秒後の勝負ありの言葉に割れるような歓声が沸きあがった。
迷宮の化け物相手には組み打ちなど通用しない。だから訓練場でも使ったことがない。使わなくてよかった、とまだ呆然としている戦士の顔を見て思う。次にやりあったらもう通用しないだろう。負けるとは思わないが気力体力を消耗するはずだった。
そして視線を人垣に向けた。驚いた顔の津差龍一郎はしかし少しずつ事態を飲み込んでいるように見える。組み合わせに恵まれなかったなあ、と息をついて真壁の隣りにごろりと横になった。
 

おつかれ、と渡されたタオルを受け取ったものの黒田聡(くろだ さとし)は汗一つかいていない。同じく第一期の戦士だったものの、いまだ第二層でくすぶっている相手ではもう大きな差が開いていた。ついでジュースを受け取りながら、高田まり子(たかだ まりこ)に笑いかけた。
「あっちで野村くんと青柳さんの戦いがあったよ。かなり野村くん疲れてた」
うわあ、と他人事のように思う。六回勝ち抜かなければならない試合、対戦相手の運は大きく影響していた。もともとある一線を越えたら実力的には大きな差はない。であれば心身を削りあう試合を経験していない方が勝つのは当たり前のことだった。自分のトーナメント表を見下ろしてにんまりと笑う。彼が所属するBグループには名だたる戦士としては自分と笠置町翠(かさぎまち みどり)のみ。道場剣法となると分が悪い相手だったが、彼女は黒田とあたる前の三試合全てが第一期の、自分たち精鋭部隊のすぐ後につづく第三層を探索中の戦士たちだった。いくらなんでも疲労困憊しているだろう。その彼女に勝つのは難しいことではなく、おそらく黒田はもっともいい状態でベスト8に進むことができるはずだ。このトーナメント、もらったね。そう言うと魔女姫は強気だね! と感心したように目を丸くした。
問題は、とトーナメントを眺める。この『覆面戦士X』という名前だが――まあ、正体が誰にせよ出てこられて怖いのは理事と橋本教官、そして星野幸樹(ほしの こうき)だけだった。彼が自衛隊の任務についているのはわざわざ人をやって確認させた。それ以外であれば誰が出てきても大丈夫だ。
「あ、始まる」
高田の言葉に試合場に視線を向けた。四角の白線のなかには見慣れた第二期の戦士の一人と小柄な人物がいた。両手にだらりと短い木刀をたらし、顔にはひょっとこのお面をつけている。――両刀? いやな予感がする。
開始の言葉と同時にお面の戦士が間合いを詰めた。そして戦士が慌てて掲げようとした木剣に右手の木刀を、左の木刀はそのみぞおちにぴったりとつけた。会場がしんと静まった。
それまで、の言葉に割れるような拍手喝采が起きる。後衛といえども連戦の見巧者、お面の剣士の並外れた実力を見切ったのだった。お約束を破って「秀美ちゃーん!」という声がかかり、慌ててひょっとこ剣士が口の前に人差し指を立てた。
爆笑のなか、黒田は魔女姫の顔を眺めた。楽勝? と問い掛ける視線に笑みを返す。こわばった笑みを。
「とりあえず、あのお面はなんとか外させよう。それが目標だな」
そう言うと魔女姫は弱気だね! と苦笑した。弱気も仕方ない。一対一の殺し合いならともかく道場剣法ではきちんと教育を受けた彼女の二刀小太刀にかなうとはとても思えなかった。おそらく笠置町翠(かさぎまち みどり)でもムリだ。