ジョッキがぶつかる音は常よりも大きく思えたが、常盤浩介(ときわ こうすけ)の心のうちには納得している部分もある。四角いテーブルの一角を占めた四人は四人とも目の前で激戦をたっぷりと見せつけられたのだから。うち二人、青柳誠真(あおやぎ せいしん)と真壁啓一(まかべ けいいち)は参加したもののともに一回戦で敗退し、残りの二人はずっと観客でいた。幼い頃正義の味方にあこがれなかった子どもはおらず、チャンバラにしのぎを削らなかった子どももまたいない。そしてこの街にいるのは人生の選択肢のなかに『怪物と戦う』というものが入ってしまうような熱い(危ない)血の持ち主なのだから。力がこもってしまうのも当然と思えた。
「しかし、うちの部隊はほんとに第二期トップなのか?」
児島貴(こじま たかし)が隣りに座る二人をじろりと眺めた。視線を受けて青柳も真壁も苦笑するばかりである。第一期と第二期の探索者の間には明白なキャリアの差があったとはいえ一部では実力の逆転現象が起きているというのが一般の意識だった。現に発言をした児島も常盤も大半の第一期の術師たちを追い抜いているのだ。今回の剣術トーナメントだけに限ってみても迷宮街でトップクラスの剣士である星野幸樹(ほしの こうき)を下し、準優勝者である国村光(くにむら ひかる)といい勝負をした佐藤良輔(さとう りょうすけ)や、小笠原幹夫(おがさわら みきお)という最精鋭部隊の一角と寺島薫(てらしま かおる)という技術面では五指に入る剣士をともに打ち破った津差龍一郎(つさ りゅういちろう)、一回戦、二回戦とも第三層に達している戦士を破った相馬一郎(そうま いちろう)などが第二期の一人として気を吐いている。津差、佐藤は同じ部隊で(津差はかけもちで最精鋭部隊に加わっていたが)現在第二層どまり、相馬にいたってはたった一度第二層にもぐっただけであとはずっと第一層で新規探索者のサポートのようなことをしている。その中で唯一恒常的に第三層を歩いているいわば第二期のエリートチームが彼らであり、その前衛三人のうち二人が一回戦で敗退とは拍子抜けにもほどがあるというものだろう。ちなみに、サラブレッドと呼ばれる二人の娘の活躍は当然第二期の活躍には数えられていない。
「いや、無理。俺は相手が悪すぎました」
しゃらっと言ってのける真壁に青柳も同意してうなずく。それで児島もからかいの矛先をそらされてしまったようだった。でもなあ、と今度は向かいに座る常盤を眺める。俺たちもやりたくないか?
ぎょっとしたのは自分よりも剣士たちの方だった。それを察してか児島が笑いながら手を振る。大丈夫、もちろん木刀つかったりはしないよ。アレだアレ、あのスポーツチャンバラみたいな防具つけてだ。浩介はやりたくないか?
そういえばこの男は暇があると山に走りにいっていると聞いていた。自分も真壁を見習ってたまにはジョギングをするのだが、山野走りを習慣的にしているなら体力には自信があるだろう。もし実現されたら優勝を狙う気でいるのかもしれない。
「楽しそうですけど、それ――」
隣りで刺身をつついていた秋谷佳宗(あきたに よしむね)が口を挟んできた。優勝はもう見えてますよ、きっと。常盤もうなずいて同意した。真剣な表情で。
二人の自信ありげな態度に戸惑いつつ顔を見比べる児島にかわり、青柳が興味深そうに秋谷に話しかけた。その優勝する人間とはいったい誰のことか?
「うちのボスですよ。湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)」
ああ! という納得の言葉は青柳も真壁も同時で術師二人はぎょっとした視線を投げた。そもそもその名前事態を特に予想していなかったがこの二人がすんなりと納得する理由はなんだろう? 確かに湯浅は若年にして精鋭四部隊の一角でリーダーをつとめており、治療術師としては第一とこの街の誰もが認めている。最近では訓練場の教官が個人的に時間を割いて指導もしているほどだった。身長も津差、南沢浩太(みなみさわ こうた)に続いて高いのではなかったか。そして後衛とはいえ探索のたびに20km以上の距離を歩き走っているためにその身体は鍛えられていた。サイズの有利は確かにあるだろう。それでも優勝は確実と言われる理由になるとは思えなかった。
術師二人の疑問を察したのか真壁が説明をつけくわえた。
「湯浅さんって後衛でたった一人自警団に入っているんですよ」
交番すらなく警察力が皆無のこの街で探索者の横暴から一般市民を守るために探索者の中に自然発生した集団が自警団だった。ある程度以上の実力を備えた戦士たちがボランティアで事業団の事務棟に待機し、住民からの被害の訴えがあれば駆けつけて迷惑になっている探索者を叩きのめし木賃宿に放り込むのがその役目である。もちろん暴れている探索者の半数は戦士たちなのだから彼らを(多勢とはいえ)組み伏せられる格闘能力が必要とされた。ほとんどが第一期の戦士たちで構成されており、第二期で加わっているのは彼らの部隊の三人や津差、佐藤などほんの数人である。その中に、普段格闘をしない身で加わっているのだった。自警団の選別は教官が行うからその実力に間違いはないだろう。確かに自分たちとは明らかに違うと思われた。
それでも児島は一つ疑問に思ったようだった。浩介、と問い掛けられる。
「お前が優勝すると思ってたのは誰だ? 湯浅くんじゃないよな」
「葵ちゃんです」
奇妙な納得の空気がその場を支配した。この街にやってきて三ヶ月でそれぞれの分野でトップクラスに踊り出た双子の実力を培ったのは地下での経験ではなく親からの教育の賜物であることは知られている。姉に施されたものが程度が同じではないとはいえ、妹にも課されていたと想像するのは容易である。皆の興味と同情の入り混じった表情は、妹の方がどれだけ強いのか、ではなくどうして目の前の男がそれを知ったのかにより強くかかっているようだった。目の前の男は話題の娘の恋人なのだから。
視線の意味を悟ったか、常盤が苦笑した。
「葵ちゃんが習ったのは護身術だけらしいんですけど、ちょっと前にびっくりさせようと後ろから抱きついたら――」
続きを待つ視線のなか、常盤は苦痛を思い出している表情でジョッキを口につけた。
「――つま先と金玉とみぞおちと鼻に同時に激痛が走ったんですよ。人間の手って二本しかないのに。で、腰が砕けたところで顔の前3センチで裏拳を寸止めされました。スカートじゃなかったら蹴りだったそうです。本人は恥ずかしがってましたけど、あの子の身体は反射で金玉殴るようにインプットされてるんですって」
少しの間、その場の四人は痛ましげな表情で常盤を眺めていた。児島が軽く咳払いする。
「まあ、よく考えたら殴りあうのは俺たちの役目じゃないしな。俺たちがチャンバラ大会なんかする必要もないか」
「・・・ていうより俺、そっちの大会には絶対出たくないです」
真壁の言葉に青柳と秋谷が深くうなずいた。
 

常に明確に未来の筋書きを予想する。
その筋書きをもとに最適な自分の行動を計画する。
実際の事態の推移はもちろん予想通りにはいかないから、どのようになぜ異なったのかを確認する。
これは大なり小なり社会人の大半が意識していることだったが、その度合いにおいて国村光(くにむら ひかる)は徹底している。効率よい身体の使い方を常に考えている影響もあるかもしれないが何よりもその職業に由来するものだったろう。国村が半期で達成するべき粗利益目標を所定の労働時間で割る(意地でも実労働時間では割らない)と125,000円となるが、これはつまり自分は時給125,000円以下の行動をしてはならない、ということなのだから。無駄な行動は許されない。
試合終了後からこれまではその国村の面目躍如たる一連の流れだった。
診療所で治療を受けながら優勝者の黒田聡(くろだ さとし)に衣服の替えを貸してくれるように依頼した。自分が着てきたものは連戦の汗で重くなってしまっていたからだ。幸いにも診療所で治療を終えることができ戻った木賃宿のコインランドリーで黒田の洋服に着替えて自分のものを洗濯し、銭湯に向かった。木賃宿を管理している女性とは懇意だから洗濯が終わったら乾燥機に入れておいてもらうようにも頼む。風呂場で眠ってしまってあとからやってきた黒田に起こされたのは計算外だったが、乾燥機に移すことを頼んだ女性が気を利かせてたたんでおいてくれたからそれも帳消しだろう。そして試合終了して2時間も経たずに国村は北酒場のドアを押すことができた。これならば早い時間に名古屋の自宅に帰りぐっすり眠ることができるだろう・・・。
しかしその前に受取らなければならないものがあった。
喧騒の中、ぐるりと店内を見渡す。今日の大会の影響だろうか? それとも平日はこうなのか? 普段見る酒場よりも熱気があるような気がした。見渡すと、目だって華やかな一角に求めていた人間の姿を見つけた。
「真城さん」
呼びかけた相手は顔なじみの探索者の一人で真城雪(ましろ ゆき)という。その美貌と戦闘能力と権威とでこの街に君臨する女性だった。ほんのりと赤くなった頬で国村を見上げ、笑顔になる。かけられたねぎらいにお疲れさまと笑顔を返した。
「もう名古屋に帰らんとならんのだが、ミラコスタはどこでもらえるのかな?」
回答はまだ配っていない、というものだった。
「国村くんも黒田もいないのにできるわけないって。黒田はさっき見かけたからそろそろやろうか?」
そして視線を座の一隅に移す。つられて送った視界には今日なんどか会話した顔があった。もうチケットは持ってきているか、という真城の質問に小柄な――ショートカットと野暮ったいメガネがあいまってまだ大学生くらいの探索者だと思っていたが、商社の人間だったらしい――娘がにっこりとうなずいた。よし、いい流れだ。
「ええと――すみません、おチビさん。お名前は?」
国村の言葉に三峰えりか(みつみね えりか)の顔がこわばった。三峰ですという声は固い。
「三峰さん、ミラコスタの優先宿泊券、もし余っていたら買いたいんだけど」
「なになになによ国村くん。尚美以外とも行く気?」 真城の茶々は黙殺する。娘は固い表情のまま一瞬だけ考えたようだった。
「ありません」
返事はにべもなかった。そして――
「あと、私はおチビさんじゃないです」
しまった、口を滑らせた。ないというのは怒らせたからか? せっかくいい流れだったのに。
「えりか! 嘘はいけません。お前がおチビさんじゃなくてこの街の誰がおチビさんなのさ。曲げたヘソ戻す必要はないけど嘘をついたらお母さん悲しいな」
真城の酔った言葉にぶすっとした表情をし、それでも娘はほんとうにないんです、と頭を下げた。これは事実だろう。国村は腕を組んだ。
目標は、ホテルミラコスタの優先ペア宿泊券を無事に持ち帰ることにある。再確認する。
それは奇妙な話だった。その券は彼が勝ち進むことで手に入れた正当な賞品なのだから。しかし奇妙を押し通す枷が一つ課せられていた。審判をしていた絶対的強者がどんな気まぐれによったものか命じたのだ。そのときの対戦相手に譲ってやってくれ、と。奈落に叩き落された気がした。
しかしあきらめきれない。それが今の思案の動機である。
最初に考えた方法は、提供元である商社にまだあるであろうチケットを適正な価格で買い取り、それを佐藤に与えることだった。しかしそれはいまのやり取りで不可能に終わった。失言のためだとは考えたくない。では、対戦相手である佐藤良輔(さとう りょうすけ)とチケットの奪い合いをしなければならない。
この場でチケットを受け取り佐藤に渡さずに立ち去ること――それは可能だ。佐藤はこのチケットに対して期待も何もしていない。賞品を訓練場で渡されたならば教官の目につく可能性があったがここならば妻子もちの男はやってこない。猫ババ(恐ろしいことに、自分自身の中にもその意識があった。それほどまでに教官の意向は重大なのか、とぞっとする気分になる)の現場を見つかることはないはずだ。
現行犯逮捕は免れても、後のやり取りで発覚する可能性はないだろうか? 一瞬考えてない、と結論づけた。教官は第一線の戦士たちに請われて相手をすることがほとんどで、第二期の中で自ら話し掛ける相手など理事の娘以外にはいなかったはずだ。これまでの佐藤に対する無関心がいきなり覆ることは考えられず、ということはこのチケットが教官の記憶に残っている間に佐藤と会話をする可能性は限りなく低い。
よし、いい流れだ。国村はにやりと笑った。あとはチケットを受け取りすぐに立ち去るだけである。もう新幹線を予約してしまおう。
京都で懇意にしている旅行代理店への呼び出し音を耳にしながら、真城が張り上げる声を聞いていた。
「ご褒美の時間ですよー! ベスト8どまりだった人は出ておいで!」
身も蓋もないその表現に苦笑して、呼び出し音を待つ視線が入り口に吸い寄せられた。それはまさに引力を備えていた。
入り口のドアの付近で席を探している橋本辰(はしもと たつ)の姿を眺めながら、今ひとつ働かない頭でただ、隣りに立っている少年は息子だろうか、似ていないなと考えていた。
 

小さなガッツポーズを見て意外を感じた。佐藤良輔(さとう りょうすけ)の目の前で同じ賞品である遊園地のチケットを受け取る娘は、その仲間の日記を読む限り恋人はいないと思っていたからだ。それでもペアチケットを喜ぶからには誰か一緒に行く相手がいるのだろう。うらやましいなあ、と胸のなかで呟いた。佐藤には誘うような相手もおらず、妹とその恋人にあげたところで恋人は多忙だったので大阪での券は活用できないだろう。11月からこちら必死になって前だけ見て歩いてきたが、少し立ち止まって考えたほうがいいのかしら、とちらりと考えた。
小柄な女性から封筒を手渡されると同時に拍手が沸きあがる。振り返るとたくさんの笑顔が自分を見つめていた。尊敬すら感じるようになった対戦相手も拍手してくれている。その顔の中には一つとしてベスト8を自分が占めたことに対して異議をもつものはないようだった。これも悪くないな、と思い笑顔で一つ頭を下げるとテーブルに戻った。
円テーブルからはもう一度拍手が起こり、つられたのか周囲から再度拍手が降り注いできた。これは、ちょっと、嬉しいが、照れる。そそくさと自分の席について、テーブルの一角に座る的場由貴(まとば ゆき)に呼びかけた。
「このチケット、よかったら差し上げますけどいかがですか?」
的場はきょとんとした顔をする。佐藤さんはいらないんですか?
「男一人でペアチケットもらってもしょうがないですし、的場さんには掃除とか治療とかお世話になりましたから。お礼の代わりになれば嬉しいです」
ええと、と言葉を選んでいるような的場に代わり、自分の隣りから手が伸びてきた。かつて同じ部隊を組んでいた大野ふみ(おおの ふみ)のものだった。的場が佐藤の部隊を離れたとき一緒に大野も行動を同じくし、今では新参者をサポートするような性格の部隊を組んでいる。その別れは決裂ではなかったので現在も親しく交流している。
「由貴ちんも行く相手いなのにそんなこと言うなんて、失礼な人だよまったく。だからあたしにおくれな」
無礼者、と苦笑しながら伸ばされた手をはたき、視線を的場においた。うん? と屈託ない笑顔に迎え撃たれなぜだか狼狽する。鼻の下に生えた無精ひげを指の腹でなぞった。
少し立ち止まって考えたほうがいいのかしら。もう一度思い、すでに自分から視線を外しテーブルの上の麻婆豆腐を取り分けている娘を見る。そういえば、この人は会った最初からずっとこうやって取り分けてたな、と思い出した。ことさら意識しなかったのは恩着せがましくなく大変そうでもなく、つまり自然だったからだ。
「的場さん、もし――」
言葉はしかし中断された。黒田聡(くろだ さとし)の声が耳に入ったからだった。
ミラコスタのチケット、誰か買うやついないかー? 3万からオークションやるぞー!」
立ち上がり振り返りながら10万と叫んでいた。倒れた椅子が一瞬遅れて大きな音を立てた。
 

探索者に対する批判でもっともふさわしくないものは吝嗇だったが金銭に無頓着であるわけでは決してない。明日をも知れぬ身であるから金には恬淡としており、高額の出費を担うことも高額の収入を求めることもごく自然に身についた態度だった。屠った生き物のどの部位に価値ある成分が潤沢に含まれるかという経験の蓄積は、戦闘の記録よりも大量に積み重ねられているのだ。そしてその知識を豊富に備え死体の採取に高い効率を実現できる探索者は、生き残る能力が高い者と同じく純粋な敬意を受けるのが常である。
そんな街に古くから住まう黒田聡(くろだ さとし)だったから、当然目の前に高い金額を提示されて拒否をするはずはない。トーナメントの商品として手に入れた三種類のチケットのうち、温泉旅館の宿泊券とUSJのチケットには使い道があった。前者は会社経営という定年のない職業に奔走する両親を強制的に旅行させる理由として都合がよく、後者は一日のデートに便利な――自分にとっては何度行ったか数えられないような場所だったが――場所にチケット手配の面倒を省いて行けるものなのだから。
しかし、千葉にある遊園地の優先宿泊券は違う。それを目の前に提示されたても処理に困るのだった。つとめて特定の異性と深い関係を結ばないように心がけるため、そのような重い(相手の心の中に残る)旅行をするつもりはないのだから。かといって一人で行って楽しい場所とも思えない。男友達を誘っても断られるか殴られるだろう。
厄介者を他人に売ろうと思ったのは自然な心の流れであり、競売という形にしたのは少しでも高い売値を期待したためだ。ネットオークションでしばしば予算以上の落札価格で自動車の部品を買ってしまう経験から、競売形式の効果は信頼していた。
しかし、としんと静まった視線の中で考えた。
それでも自分が設定していた目標はできれば6万円というものだった。いくら人気ある遊園地の人気のあるホテルとはいえ、一泊とフリーパス券が二人ぶんで6万円を超えるようでは許されないと思う。目標は6万円、それでも5万円を超えれば仲間たちとの今夜の飲み食いは全て払うことができるだろう。そんな皮算用だったのだ。それがいきなり崩された。予想もしない、到底受け入れられない高値をつけられることによって。一つ息を吸い込んで佐藤良輔(さとう りょうすけ)の目を見据えた。
強い光に迎え撃たれて思わず身がまえる自分に驚く。この若者にはしばしば稽古をつけていたが、これほどの気迫を備えていたのか?
「あのさあ、佐藤くん。10万はあんまりだろう10万は。たかが遊園地の券だぞ? 一日分だぞ?」
「11万!」
え、と目を見開く。いまこの男はなんと言った?
「ちょっと待て落ち着け。俺は10万は高すぎると言ってるんだ。そんな値段で売れるわけないだろう」
「12万!」
やばい、と呆然とつぶやいた。理由はわからないけれど、目の前の男には自分の言葉が聞こえていない。そして身体が戦闘状態に入っている。ビリー・ザ・キッドと面と向かった人間はこんな感じだったのだろうか。動けば撃たれる、という恐怖である。自分の場合は口を出せばさらに値段を上げられる、だったけれど。
自分が気圧され怯えていることを実感していた。え、ええと、と口ごもった。
「わかった、そんなに欲しいんだったら3万でどうだ」
「13万!」
「25,000じゃあ」
「14万!」
だめだ。言葉が届かない。でもこのままでは埒があかなかった。提示される金額が国を買えるような数字になる前になんとか決着をつけなければならない。
簡単なのは一言「売った!」と叫ぶことだがそれはしたくなかった。遊園地のチケットを14万円で売りつけるなどと、まるで弱いものいじめみたいではないか。いじめられているのがどちらなのかが良くわからなかったが。
金額を言うとそれがトリガーになるのかな。
「じゃあ、佐藤くんがもらったUSJのチケットと交換というのは――」
「15万!」
この野郎ぶん殴ってやろうか。黒い衝動が胸の中に湧き上がった。鎖骨両方とも叩き折って懐に強引にチケットをねじこめば俺は解放されるんじゃないだろうか。
一流の戦士の本分は激動の中での決断力にある。右腕がすぐそばの机の上のビール瓶を探ったとき、その動きを一つの声が止めた。
佐藤! と低く鋭い声はムチのように響き渡り、壊れたテープレコーダーを人間に引き戻したようだった。二人して眺めた声の主は国村光(くにむら ひかる)という。この大会の準優勝者である。
「せっかく黒田くんがUSJチケットとの交換でいいって言ってくれてるんだ。好意を受けたらどうなんだ?」
佐藤は目を数回またたかせて黒田の顔を覗き込んだ。憑かれたような輝きはすっかりと消えうせていた。え? と驚きと喜びが声にあふれている。
「交換でいいんですか? でもそれって不公平じゃないですか?」
何を言っているんだろうこの男は。黒田はぼんやりと考えた。わけがわからない。
「せめてそこにいくらかお金を」
黒田は慌てて手を振った。早く決着をつけないといつまたスイッチが入るかわからないと思ったからだ。
「俺にとってはUSJの方が嬉しいからさ、何度でも行きたいし」
何人とでもでしょ? とすぐそばの席の女性が投げた言葉に肩をすくめる。それでようやく佐藤は笑顔になった。
「すみません黒田さん、甘えます。どうしてもそのチケットは欲しかったんです」
そりゃよーくわかったよ。黒田は胸の中でつぶやき、国村に笑顔を向けた。助かりました。そう言外に込めたつもりだった。国村は鷹揚に微笑んだ。
「まあ俺がでしゃばることでもなかったみたいだけど、たかがミラコスタのために大の男が二人必死になるのもみっともないからな」
まったくです。感謝と尊敬の念をこめてうなずく。
確かに試合は自分が勝ったのかもしれない。でもそれは幸運が左右するものでもあるだろうし、チャンバラで強いからっていったい何の自慢になるだろうか? そう思わざるを得なかった。それよりも、自分がどうにもできなかった難敵を一言で鎮めてのけたのだ、この男は。
「じゃあお前らの間で交換で決まったな? なら俺はもう行くから」
なんだかそわそわしているのは列車の時間があるからだろうか。少なくとも明日は会社づとめがある男だった。店内のいたるところから投げかけられる送別の言葉に軽く手を挙げるだけで進む背中に感動を覚え、深く頭を下げた。
 

苦笑とともにもらした呟きは同席している人間に意外に感じられたらしい。双子の妹である笠置町葵(かさぎまち あおい)が代表して問いかけてきた。
「国村さんがちゃっかりしてるって・・・どういうこと?」
笠置町翠(かさぎまち みどり)はその言葉に妹の顔を見つめた。視線を隣に座っている神田絵美(かんだ えみ)と野村悠樹(のむら ゆうき)にも滑らせたが二人もまた自分の呟きを不審に思っているようだった。翠は一瞬考えて答えに思い当たる。葵、と妹に尋ねた。
「国村―佐藤戦のあとで、国村さんと橋本さんが話した内容は聞こえなかった?」
否定された。何か話しているのは知ってたけど。そういう答えだった。
一瞬の判断の緩みで明暗が分かれるのが地下での探索行為であり、優れた実績を残している人間は総じて外界に対する観察力が鋭かった。たとえば、この神田という魔法使いは翠の気分がふさぎこんでいる時、たとえ妹の葵が気づかないようなかすかなかげりであっても気を使ってくれる。野村の感覚について詳しくはわからないが、今はもういないある第一期の戦士とともに自転車で街を走ったときなど、カーブの向こうが見えているかのように車の接近を察知することに驚いたものだった。野村もその戦士と同じ精鋭四部隊の一角を担っているのだから同じだけの鋭さはあるはずだ。しかし神田も野村も首を振るだけだ。そうか、聞こえていなかったのか。
その試合、自分はセコンドとして最前列に陣取っていた。だから同じように最前列に座っていた神田と野村は聞き取っていたと思っていたのだが。自分の聴覚が常人よりもはるかに優れていることは知っていた。ともに人間の規格外にいる両親のどちらかから受け継いだものなのだろうが、あまり嬉しい贈り物ではなかった。飛び込んでくる物音にはいくつもの種類があり、その中にはため息と舌打ちも当然含まれる。見知らぬ誰かのものであってもため息と舌打ちは翠の心を落ち込ませた。
しかし今はちがう。種明かしの愉しみとともに答えを教えてやった。国村さん、橋本さんから言われてたんですよ、と。佐藤さんにチケットを譲ってやるようにって。国村さんは不服そうだったけど、橋本さんに口答えできるなんてこの街じゃ由真ちゃんくらいだからね。
そうなんだー、と神田が苦笑した。
「チケットなんか気にしてもいないような、そうやって言われないとわからない態度だったわね」
野村もうなずいた。そう。国村は実はチケットに執着していたのだ。しかしそれを毛ほども出さなかったから却って評価を高めた上でチケットも確保することができた。見事な立ち回りといえる。
ふーん、と立ち去る国村の背を眺めていた妹があ、と声を上げた。あそこ、孝樹兄ちゃんがいる。
「え?」
慌てて視線を追うと従兄の水上孝樹(みなかみ たかき)が出口に向かって歩いていた。担いでいるのは旅行かばんだろうか? たった今到着したのか、これから帰るのかどちらかだろう。
「今日、こっちに来てたんだ――翠?」
翠は立ち上がっていた。コートかけのコートのポケットから賞品のチケットをつかみ出す。
「翠?」
妹の声を背に聞きながら足早に進んだ。通り過ぎる雑音の中になじみの深い笑い声が混じっていた。まったく普段どおりの馬鹿笑いが、その男が自分にいま意識を向けていないことを教えてくれる。名前を呼びながら追う妹があって足早に歩いているにも関わらず気づかないのだろうか。
目指す従兄は当然のように笑顔で親戚の姉妹を迎えていた。孝樹兄ちゃんは気づいているのに! お前はそれでも第二期のエリート戦士か情けない! 気づけ!
かつての思い人に気づかれていることを喜ぶより前に、相変わらず続く仲間の馬鹿笑いになんだか腹が立った。
 

「ええ? いいよ別に」
従兄の断りの言葉を笠置町葵(かさぎまち あおい)は意外に思った。双子の姉の笠置町翠(かさぎまち みどり)があげようとしたのはたかが遊園地のフリーパス券であり、2枚で1万円だとかそこらのものだったはずだ。それは数日前に従兄とその婚約者が行こうとしていた場所で、突然行かれなくなった婚約者の代わりに姉が一緒に遊びに行った場所である。だからもののやり取りとしてもイーブンだったし、加えて姉の手にあるチケットは本日行われたトーナメントのべスト8の賞品である。金を払ってあがなったものでもないのだ。従兄にとってはとりたてて喜ぶほどのものでもなく、したがって断る理由もないと思っていたのだが。
なんで孝樹兄ちゃんが決めちゃうのさ。翠は苦笑して食い下がった。
「私を連れて行くようにって言ってくれたのは由美さんなんでしょう? 私も由美さんにお礼するおまけの孝樹兄ちゃんなんだからさ、とりあえず受け取っていおいてよ」
でもなあ、とまだ渋る。数秒たって、言い出しにくそうに呟いた。
「真壁くんが行きたがってるんじゃないのか? 翠ちゃんと」
姉は虚を突かれた顔をした。
「いや、真壁さんは行かないわよ。だってあの人来週で――」
「なに? 兄ちゃん真壁さんにびびってたの?」
あわてて言葉をかぶせる。自分が危うく口を滑らせるところだったと悟ったのか、視界の端で姉が感謝の視線を送ってきていた。この従兄は真壁啓一(まかべ けいいち)という名の若者と姉が交際していると思い込んでいる。どうしてそう思い込んだのか、どうしてその勘違いを矯正しなかったのかは事情があり、ここで真壁がこの街を去ると告げてしまったら、最悪の事態では従兄にその事情を話さなければならなかった。せっかく(たくさんの人間の気遣いの結果)事情は円満に昇華されるところなのに、いらぬ手間を自分から呼び出すべきではなかった。
水上は笑った。苦笑いといってもいい。従妹たちの目配せにはまったく気づいていないようだ。そりゃそうだ、と葵は別に不思議には思わなかった。従兄は武人として自分たちとは比べ物にならない存在だったが、それは臨戦態勢にあってのことだ。妹とも思っている二人の挙動を注視するはずもなかった。そう。気を許した人間の態度はあまり気にならなくなってしまうものだ。
似てるわー、と従兄と姉とを見比べた。自分は恋人に気を許しているが、それでもここまで鈍感にはなれない。
「なんかさ、君らがこっちに来たときから真壁くんの意識がビンビン伝わってくるんだけど。彼、USJに執着があるんじゃないのか」
え? と翠が振り返って店内の一隅を眺めた。いつものバカヅラしかしてないけど。
「いや、かなり気を張ってるぞ。本当に気づかないのか? 葵ちゃんも?」
葵も一瞬考えて頷いた。それが妥当な回答だと思ったからだ。とにかく! と翠が封筒を水上の手に押し付けた。
「私たちはいらないから、これは由美さんと相談して兄ちゃんが捨ててください。ほらほら! 今日中に東京に帰るんでしょう?」
「――ああ、チケットはわかった」
水上の顔は真剣だった。
「チケットはわかったけど、あの真壁くんの気を感じ取れないんだったらちょっとこれ以上潜るのは考えた方がいいんじゃないか? 鈍すぎるぞ、お前ら。二人がまだまだ未熟だということを差し引いてもちょっと隆盛さんの子供とは思えない」
アルコールだよ、と一言で切り捨て葵は従兄の背中を押した。俺また明日の夜に来るから、その時ちょっと試させろ! 言い募る背中を強引にガラスの押し扉から突き飛ばした。
ふう、と息をつく。恋人とは違い毎日鉄の棒を振ったり止めたりしているだけのことはある。その身体は肉厚で重く、押し出しも一仕事だった。ねえ、という声に視線を上げると姉が少しこわばった顔をしていた。
「今の孝樹兄ちゃんの言葉だけど、私たち鈍いのかな」
あー大丈夫大丈夫。面倒になってひらひらと手を振りながら席に戻った。肩から下ろしてみて初めて、双子の姉の片思いは自分にとっても重荷だったのだと気がついていた。私には痛いほど伝わってたし、翠も他の条件なら寝てても目が覚めたはずだよ。
条件? いぶかしげな顔に返事はせずに、不在中に届いていたらしい麻婆豆腐を掬い取った。
本当に似てるわ、アンタたち。心の中で呟く。
孝樹兄ちゃんが翠の片思いに気づかなかったことも、翠が真壁さんにずっと気を配ってもらってたのにまったく気づかなかったことも。
ちらりと視線を送る。もう『条件』はどうでもよくなったのか、嬉しそうな顔で麻婆豆腐に挑んでいた。
 

言葉をかき消したものは、常日頃喧騒に満ちたこの場所であっても珍しいものだった。拍手と喝采である。その意外さに思わず中村嘉穂(なかむら かほ)は振り向いた。見ると、一角でよく見かける女探索者がなにやら声を張り上げている。名前だろうか? 誰かを呼んだのだろうか? その直後に進み出た頑強な探索者がなじみの研究者から何かを拝領していた。
振り向いて、ガッツポーズ。そしてまた拍手と喝采だった。なんのお祭りなのあれは? 見上げた視線の先で蝶タイをした男が首をかしげた。
「今日、チャンバラ大会があったんですよ!」
正解を教えてくれた娘の顔は紅潮していた。ほんの一瞬前までここにあった眉を下げての悩み顔はどこに行ったのだろうか。苦笑を押し殺してチャンバラ? と聞き返す。
「そりゃ、惜しいものを見逃したな」
三人がいるのは北酒場と呼ばれる飲食施設にしつらえられたバーカウンターだった。中村とその隣りの娘である織田彩(おりた あや)は客であり、スツールに腰掛けた彼らを見下ろす小川肇(おがわ はじめ)はカウンターの内部で飲み物を供する役を担っていた。
すっごい燃えましたよ小川さん! 織田は嬉しそうだ。大学をさぼった甲斐がありました!
チャンバラねえ。興味を失ったようにつぶやいてカウンターに向き直った。
「もうこの街に来て結構なるけど、未だにあの連中の考えることはわからないわね」
「彼らはいわば英雄だからな」
英雄? と鸚鵡返しの言葉は織田がもらしたものだった。その理由が中村にはわかるような気がする。織田は唯一のコンビニのアルバイトとしてこの街ができた時から働いている。『いちごオレ』や『かにパン』や『少年ジャンプ』や『ビスコ』を差し出し買っていく存在が彼女にとっての探索者なのだ。薬局に勤務する自分にとって探索者とは筋肉痛や花粉症や風邪や妊娠の恐怖にさいなまされている存在であるように、そこには英雄らしさというものは断片すら感じられないのだろう。
「まあ、アルコールが入って勇ましくなっているところしか見ていない肇にとっては英雄かも知れないけどねえ」
織田の表情にも同意の光がある。しかし小川は苦笑して、そうじゃない、と否定した。
「昔からの物語を読んでいると英語ではヒーロー、日本語では英雄と呼ばれる存在がある時期を境にがらりと変わることに気づく」
また始まった、と中村はうんざりした思いでカクテルグラスを口につけた。このバーテンは決して悪い人間ではないが、この街に来るまでの本業がものかきであることも影響しているのだろうか、話しているとしばしば講釈が始まることがあった。年齢の離れた織田にとってはそれもありがたく感じられるらしいが同年代の彼女からすると何をしゃらくさい、としか思えない。中村はこれまでそれなりの男性遍歴を経てきたが、部屋に大きな本棚がある男にろくな奴はいないというのが持論だった。そして目の前の男の部屋の本棚はこれまでの誰よりも大きく頑丈だったのだ。
「ある時期、というのは都市文化がその民族に定着した頃だ。都市文化を成立させるためには個人の感情よりも共同体の道徳を優先させる必要が出てくる。都市文明以前の自分のためだけを考え行動し、そのためスケールの大きかった英雄たちは都市に飼いならされることによって自分以外の価値観に従うようになる」
たとえば儒教、公共への貢献、宗教、フェミニズムといったものだな。その例に織田は頷いた。
最後のしずくを飲み干した。普段ならばこちらの顔をうかがうだけで差し出される次の杯が出てこない。くるりとスツールを回転させて騒がしい探索者の群れを眺めた。その視線に沿うように、彼らは、と低い声は続く。まだ続く。
「彼らの価値観の最上にあるものは戦闘において勝利することで、ついで地下からの獲得を積み上げることが続く。社会道徳も法律もその前にはかすむほど小さい。彼らにとって探索者と英雄という言葉は同意語であり、探索者の行動の主要テーマは二つの基調――武勇と名誉――のうえに築かれている。前者は英雄の本質的属性であり、後者は本質的目的だ。彼らの価値観、判断、行為、技量や才能といったもの全てに名誉を明示できるかどうかのフィルタが常にかけられる。彼らのほとんどは行動、感情ともに情熱的で人生を愛し、そこには自分が納得しない価値への殉教者的な性格などは存在しない。にも関わらず、彼らの話を聞いている限りでは信じる価値観はその生命よりも優先されるらしい」
これが英雄でなくてなんだろう? そして、チャンバラのトーナメントより彼らにふさわしい祭りなどなかなかないさ。酔ったような言葉は一息ついたらしい。ちらりと隣りの娘を盗み見たが、半分納得で半分理解不可能という顔をしていた。潮時か、とくるりとまた回転した。
「肇、今度はビールベースで」
こちらの冷静な言葉に急に現実に引き戻されたのだろうか? かすかに顔に朱をさしながら小川は首をかしげ問いかけるように小さく目を見開いた。
「ビールにジンジャーリキュールを少し入れて頂戴」
小川は苦笑した。ビールベースにジンジャーリキュールのカクテルは通称をストーンヘッドという。揶揄に気づいたのだろう。
「あ、そういえば」
もういちどくるりと振り向いて人影を探した。
「あのでっかいの来たよ、今日。栄養剤探しに来てた。温泉は好きかって訊かれたな」
「え? 一位の賞品が確か温泉旅行でしたよ。それって――」
棚の瓶の一つを手に取って軽く振る背中から低い声が漏れた。
「ほう。で、なんと答えた?」
別に、と表情を変えずに心の中では含み笑いをしている。
「温泉は大好きだから誘われればいつだってホイホイついてくって言ったわよ」
「ほう」
声は先ほどよりも低い。中村はなんとなくいい気分になってチョコレートを口に入れた。
 

隣りに座ってきた男に向けて、屈託のない笑顔がすんなり出てくる自分に葛西紀彦(かさい のりひこ)は驚いていた。別に嫌っていたというわけではない。もともとそれほど近しくする関係でもなくなんとなしのよそよそしさがあっただけだ。自分自身に対して社交的ではないという自覚があったから、そんな距離の人間に対して即座に心からの笑顔が出ることが意外だった。
あれか? お互い全力を尽くしたあとだからか? 夕暮れの土手で学ラン着て大の字になって「お前強いなー」とか言っているようなものだろうか? そうじゃない、という気がした。目の前の整った顔立ちをした男にはこちら側の遠慮や気後れを気にせず踏み込んでくるだけの明るさと自信が感じられる。それがこちらの警戒心を無用のものだと教えてくれるのだ。こりゃもてるわけだ、と実感した。
「おめでとうございました黒田さん。俺も優勝者に負けたんだ、ってことで鼻が高いです」
黒田聡(くろだ さとし)は一つうなずくとテーブルの上のピッチャーから葛西のジョッキにビールを注いだ。
「俺も葛西くんに勝ったんだ、って鼻が高いよ」
返杯として誰のものともわからないジョッキにビールを満たしながら、またまた、とつぶやいた。
軽くジョッキをぶつけ、口につける。アルコールを流し込みながら横目で伺っていたが優勝した男はなかなか口を離す様子がなかった。喉仏は間断なく動き、とうとう泡だけがこびりついたジョッキがそっと卓に置かれた。弱点なしかこの男、と呆れながら見つめる。
「そういえば」
ふと思い出して葛西は口を開いた。
「すごかったですね、あのパンチ」
黒田は怪訝な表情を浮かべた。
「君を殴ったあれか? ぜんぜん効いている手ごたえがなかったんだけど」
いやそれじゃなくて。葛西は訂正した。決勝戦の入場で津差さんを一発でうずくまらせたじゃないですか。
ああ、あれかと黒田は口の端をあげた。
「神足さんの木刀が刺さったところそのまま殴ったからね。治療術は使ってないだろうって予想していたけど、案の定一発でダウンした。まあこけおどしにはなっただろ」
種明かしに感心した。試合場のすぐそばに転がっていた黒田は死体と見まごう有様だったけれど、それでも津差の巨体のどこに木刀が突き刺さったか寸分たがわず覚えていたのだ。なんで自分はいい勝負ができたんだろう。改めてその思いがわきあがってきた。
君と試合して、と黒田が口を開いた。
「さゆりのことを思い出したよ」
ふと眉をひそめた。その視線はテーブルの上で湯気を立てる鍋に向かっていた。エビやら白菜やら豆腐やらが赤いキムチ味の汁で煮込まれていた。おタマを片手に鍋を覗き込み、作戦を立てているらしい。
「奇遇ですね。俺もです」
もう三ヶ月くらいになるのにな。思い出したことに驚いたし、それよりも忘れていたことに驚いたよ。
まじまじと顔を見つめてしまった。冗談を言っているようには思えなかったし、そもそも不謹慎な冗談を言っていい状況ではなかったからには本心なのだろうか? 彼と目の前の男と話題に上っている女との間には、古今東西の恋愛譚で使い古されたような経緯があったのは事実だ。しかし女性関係において勇名をはせるその男には小さなことだと推測していたのだ。忘れて当然のものだろうと思っていたのだ。意外ですね、という思わずもれたつぶやきに視線が向けられた。黒田は苦笑していた。
「俺がどういう風に見えるかはわかっているつもりだけど、うん、いろいろあるよ。人間関係は」
そういうものかもしれない。ともあれいまになって蒸し返す問題ではないのだろう。なんといってもその女性はもうこの世にいないのだから。
「葛西くん、料理人上がりだって? 葛西くんの鍋がおいしいんだってさゆりが言ってたのを思い出した。俺らにも振舞ってくれよ」
いいですね、と笑顔を浮かべる。真城さんのところに押しかけてやりましょうか? そうそう、と黒田はもう一度視線をこちらに向けて頷き、目元にエビの殻からはねたしぶきが飛んだ。辛味に満ちた汁に目をやられたのだろうか、うめき声を上げながら目をこする姿に思わず吹き出した。
「そうだ。黒田さん、今度から稽古つけてくださいよ。結局切り合いじゃ相手にならなかったわけだし」
「断る!」
何を言われたのかわからず、葛西は美男子の顔を覗き込んだ。さっきまでの和やかな空気はどこに行ったのだろう。ずっと日本語で会話していたのに、いきなり他の国に紛れ込んだのだろうか?
「いや稽古ぐらいいいでしょ。今までの友好的な空気を読みましょうよ」
「コトワルッ!」
言葉がいびつに響くほどかたくなだった。途方にくれて視線を移したら話を聞いていたのか、サラブレッドの女剣士が深く頷いていた。わけがわからない。
 

[怪物情報]⇒[日付順に並べる]とクリックする。ずらっと並んだタイトルを眺めたが、一番上にある書き込みは昨日、20日のものだった。明日からのゴンドラ設置作業に備えて第三層以下にもぐる部隊はほとんどが休んでいるはずだ。まあそれは当然か、と津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は納得する。
地下に潜らない日の探索者の日課にはいくつかあった。各人思いのままに訓練することもそうだったし、人生を謳歌することもそれに含まれるが同じくらい重要なものとして、他の部隊がもぐって得た発見について掲示板に書き込まれたものを読み込むというものがある。敵を知り己を知ればなんとやらという言葉もあり、己を知ることは日々の訓練のなかで、そして敵の知識はこうやって共有している。かかっているものが自分と仲間の命なのだから、心得のある探索者で予習と知識の共有をないがしろにする者はいなかった。
どの探索者も大体30〜60分ほどの時間をかけて情報を仕入れる。それが今日は不要になった、ということで途端に退屈になってしまった。ギ、と体重を預けた椅子のきしみはそれがもうずいぶんとくたびれていることを実感させた。ここは迷宮探索事業団の事務棟の一階にある小会議室で、現在津差のほかに四名の探索者が思い思いに暇をつぶしていた。
「今日、書き込みなかったろう」
漫画を読んでいる背中が問いを発した。寺島薫(てらしま かおる)というその剣士は今日の昼に行われた剣術トーナメントで津差と戦った相手だ。実力ではまったく歯が立たず防戦一方だったが信じられない幸運で勝つことができた。もう一回やったら相手にならないだろう。なにしろ自分に背を向けている状態でクリック音だけで津差が何を感じたか把握していることをを驚く気にもなれないのだから。
「寺島さん、何を読んでるんですか?」
ガラスの仮面。誰だかの実家が改修するらしく、少女漫画が木賃宿に大量入荷されたんだ」
他の三人を眺めても同じく白とピンク色の本に釘付けになっていた。これじゃ話し相手もできやしない。
「ちょっとくらいならいいから暇つぶしを持ってきたらどうだ?」
この部屋にいる五人はなんとなく事業団の事務棟(もちろん職員は全員帰っているのでこの部屋以外は真っ暗になっている)に集まったのではない。警察力がないこの街で、探索者が非探索者に対して迷惑をかけた場合に取り押さえるための自警団を任命されているのだった。この部屋で0時まで過ごし、あとはポケベルを持ってそれぞれねぐらに帰る決まりとなっていた。基本的に探索者の善意で運営されているだけあって規律は厳しい。でも、と反論しようとすると寺島は手を振った。
「今日のトーナメントに出た奴らは全員血の気が下がってるだろうし、出てない術師たちは俺たちがどれほどの存在か身に染みてわかったはずだ。だから今日はみんなおとなしくしてるさ」
それもそうか、甘えるか、と立ち上がって向かった扉が手を伸ばすより前に開いた。うわ壁! と小さな悲鳴が胸の位置で起きた。
「おう、真城さんか。どうした」
寺島の言葉どおり、見下ろす先には真城雪(ましろ ゆき)が立っていた。アルコールがまわっているのかその頬はほんのりと赤い。しかしお疲れ様、と部屋の人間をねぎらう声はまだ落ち着いているようだった。
「津差さんに賞品のチケット渡しに来たのよ。あとはみんなに差し入れね。北酒場で適当なものを包んでもらったから。それとウーロン茶」
テーブルの上で湯気を立てる料理に歓声が上がり、男たちは少女漫画を脇に置いて集まった。真城がああ! と悲鳴をあげた。
「30巻から先! ここにあったのか!」
「昼ごろにもう運び込んでおいた」
しれっとした寺島の言葉に探し回ったんですよ、と悔しそうに答え、パイプ椅子に座り込んだ。どうやら読んでいくつもりになったらしい。
湯気の立つ食べ物がやってきたとなれば暇つぶしを探しに行くのはのちほどでいい。津差は傍らに置かれたウェストポーチから布でできた袋を取り出した。中からは短い菜ばしかと勘違いしそうなほど長い箸が現れた。それを見た寺島が苦笑したのはまさか食事があると思われないこのような場所にすら持ってきているからだろう。常識はずれの手のひらのサイズのために北酒場の割り箸ではうまくつまめない津差を見かねて、日曜大工が得意な探索者が袋ともども作ってくれたものだ。右手全ての指の太さ長さまで計測して作ったもので、しかも漆で仕上げされている。十年ぶりくらいに箸にストレスを感じず食事ができた感動のため、風呂場と布団の中以外の全ての場所、それこそ地下ですら持ち歩いている次第だった。
食べる者読む者それぞれの幸せな沈黙の後、真城が津差に呼びかけた。
「今日の大会はどうだった? 津差さん」
そうだなあ、とまず答えてから少し考える。試合はベスト8まで、大健闘だったがこの充実感の原因は結果に関してもものではないだろう。何を自分は得たのか?
「とてもいい経験だったな。今日だけでより強くなった気がする。もちろん俺だけじゃなくてみんなそうだと見てわかるけど」
寺島が頷いた。理不尽な不運で格下に負けた彼にもまた得るものがあったことだろう。
「そうだな、またやりたいな。次の次くらいには優勝できる気がするよ」
おお! と男たちがどよめいた。彼らは全て第一期の戦士たちで、寺島は当然としてもまだ自分よりは道場勝負では強いだろうと思われた。その彼らにしては当然僭越と思われる言葉だったろう。しかし、今日のことは自分にたくさんのものをもたらしたと、そういう確信があったのだ。
「そっかー。うん、またやりましょうね!」
この街の権力者はアルコールで赤い顔でにこにこと笑っていた。本当に嬉しそうに笑っていた。
 

ビニール袋がうるさく鳴る音は、めったに人の通らない深夜では目立った。どれだけ腕っぷしに自信がありこの街の人間を信頼していたとしても、結局は女である。一人で闇を歩くのは怖い。鋭敏な聴覚を手元のポリエステルが邪魔している今はなおさらだった。送っていくか、という申し出に甘えればよかった、と後悔しつつ真城雪(ましろ ゆき)は歩を早めた。
常宿である『宮殿』に向かって歩く夜の道だった。東西大通りに面した事業団事務棟脇から北へ伸びる小道は美観に配慮した街区だけあって街灯の光も控えめで、一つの電灯から次の電灯へと進む足元の影は、かなり長く伸びてからようやく背中側へと切り替わる。
ふう、と息を吐いて立ち止まった。
コートのボタンを一つはずし、その中に手を差し入れる。引っ張り出されたものは細い金の鎖で、つながれて出てきたのは弱い街灯を反射する青いきらめき。白い手のひらに包まれたそれは大ぶりなロケットだった。ぱちりと開いた内側には一枚の写真が埋め込まれており三人の子供が並んで笑顔を見せていた。二人の女の子のうち一人は中学生くらい、残りは小学生くらいの男の子と女の子である。肩を組んでいるのか、頬をくっつけあって写真になんとか納まっていた。真城は微笑んだ。
「うまくいったみたいだよ」
三つの笑顔のうち、たった一つ男の子のものに笑いかけた。強気で朗らかな少年はそのまま真城の脳裏で成長し、落ち着きと誠実さとやさしさを加えたものになっている。大きな青あざは変わらない。
しばらく前、ある提案を探索者中に実現させるために真城が奔走していたことがあり、この写真の子供の面影を残している男はその交渉にぴったりとくっついてきてくれた。何度ヤケになろうとしたかわからないが、暴発しなかったのはその男のお陰だと思っている。
二人で飲んだ夜のことを覚えている。いろいろなことを話したうち、彼は「模擬大会のようなものができないか」と言ったのだった。地下で戦うような緊張感をそのまま地上に持っていくには、真剣に戦えるような巨大な名誉をかけてトーナメントでもやったらどうだろう。何が何でも命を削って精進しなければならないことでもないし、落ち着いて他の人間の戦いを見るだけでも十分すぎるほど参考になるのではないだろうか。
真城は真剣に聞かなかった。その時の彼女にとって、探索者全員の能力の底上げなど考える余裕はなかったからだ。いいんじゃない? でもアタシは音頭とらないし、地下に潜る予定をずらしたりもしないからね。つっけんどんな言葉には、なかなかうまくいかない説得に対する苛立ちが棘となっていたことだろう。しかし相手は困ったような笑顔を浮かべただけで、旗を振るつもりはないかとだけ、残念だとだけ言ってその提案を引っ込めた。そして次の夜にはもう会えない場所に行ってしまっていた。
実施してみた今振り返ると、確かに彼の言うとおり効果はあったのだとわかった。それも、想像もしていなかったほど大きな効果が。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という、まだ未熟だが将来的にこの街で屈指の存在になることが確実な男の自信ありげな言葉を思い出してくすくすと笑う。そしてそれを聞いた古参の戦士たちの表情も。でかいだけの男がしゃらくさい、という表情は大人気なくしかし頼もしげで、彼らもまた大事なものを今日だけで見つけたのだろうと推測できた。
「今ごろアンタが戻ってきても、もう黒田くんには全然かなわないんだからね。お願いだからまじめに稽古つけてくださいって怒られちゃうよ、きっと」
だから帰ってきてよ。そう呟いたが写真の中の笑顔は動かない。その写真の中、左端にいる自分と右端のその少年との年齢差は1年、自分が年長だった。ずっと変わらなかったその数字は、これからはもう増えるだけなのだ。
軽やかな音を立ててロケットを閉じ、もぞもぞとブラウスの中に戻した。夜の風にすっかりと冷やされた金属が肌に触れ、思わず声が漏れてしまった。ばつの悪い思いを押し殺しながらあたりをうかがう。誰にも見られている様子はなかった。そして空を見上げた。冬の乾燥した空気、そして京都の中心から微妙に離れたこの場所では空がとても広く近く感じられる。流れ星見えるかなあ、としばらく口をあけたまま星の海を眺めていた。
うう、寒い寒い。今日はこっちの部屋で寝ようかなあ。あっちの部屋は布団薄いし、セリムも夜遅いとあんまり遊んでくれないし。
数十秒経ってあきらめて、指が痛くなっていたビニール袋を持ち直し、歩き出した。アスファルトをブーツのかかとが叩く音が小さくなっていく。


背中を見送る空、小さな星が一つ流れた。
 
 

和風Wizardry純情派 最強トーナメント 終