黒田聡

黒田聡(くろだ さとし)は軽い吐き気を感じていた。何かおかしい。今日になっての連戦でかつてないほど鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が教えてくれたかすかな違和感、床を転がり完全に無防備だった敵手に対する追撃をやめさせたのはそれだった。このまま突っ込む…

開始の声を耳の後ろのほうで聞いた気がした。それだけのスタートだった。視界の真中で普段どおり余裕のあった顔がこわばる。地下では比較にならず地上においても実力が上の相手だ。いくらいいダッシュを切れたところで勝利はまだ見えないところにある。それ…

「真壁くん、ハンマーないか?」 え? 何ですか? と怪訝な顔に向け、放送席を親指でさした。あの人にマイク持たせてるとどんなこと―― 『いつも限定つき戦士でした! 地下でなら最強! 女が見ていれば最強! 身体能力なら最強! カラオケボックスなら最強! …

真壁くん、というその言葉には距離にしては大きく、かすかな苛立ちが感じられた。もしかしたら何度か呼ばれていたのに気づかなかったのかもしれない。真壁啓一(まかべ けいいち)はバツの悪い思いで傍らに立つ黒田聡(くろだ さとし)を見上げた。なんです…

準決勝を前にしても身を包む空気には変化が見られない。ゆったりとしたそれは黒田聡(くろだ さとし)が後衛から好かれる大きな要因ではあったけれど、それでもその空気のまま訪れられた面々はうろたえたようだった。同じく準決勝を目前にして、客席の段差に…

「まさにペテン師の面目躍如ってところね」 疲れた、と言い残してとっとと横になってしまった神足燎三(こうたり りょうぞう)の代わりに二戦士の仲間たちが片付けをしているところだった。高田まり子(たかだ まりこ)は土嚢を一つどけてしみじみとそう呟い…

剣士なんか大嫌いだ。 迷宮街では自分たち前衛職は幾通りかで呼ばれている。一つはもちろん戦士であり、前衛と呼ばれ、剣士と呼ばれる。それらは基本的には同じ用途で使用されるが剣士だけは特別な意味をもつことがあった。きちんと剣道もしくは剣術の訓練を…

あ。黒田聡(くろだ さとし)はすぐ試合場の向かいに立つ女戦士の異常に気づいた。 笠置町さん、ガチガチになってる。 きょろきょろと揺れる視線、背後の声援のたびにびくりと震える肩。笠置町翠(かさぎまち みどり)の立ち姿からは、これまでの試合で見ら…

影が手元を覆ったその瞬間の足音が、普通の身長のものよりほんの少しだけ遠かった。なんだいナミー? と黒田聡(くろだ さとし)が顔もあげずに問い掛けたのはそれが理由だった。近寄ってきた人影はうろたえたように揺らぎ、気を取り直して近づいてくる。そ…

背が高い人のことをあまり羨ましがったことはなかった。三峰えりか(みつみね えりか)は身長144cmであり女性の平均身長ですら160cmに達しようという現代で、その意識は奇異と人には思われるだろうがそれが実感なのだから仕方がない。成長が止まった中学生か…

心の中で何度冷や汗をぬぐったことだろう。笠置町翠(かさぎまち みどり)と手合わせしていわゆるサラブレッドたちの実力はわかっているつもりでいたが、それでもここまで切り込みを無効にされるとそら恐ろしい気持ちになる。 ほら、まただ。この街のどの戦…

開始線で向かい合うと敵手である黒田聡(くろだ さとし)の意識が全て自分に向いたのだとわかった。全身のうぶ毛が総毛立ち毛根が痛いくらいに敏感になっている。毛穴の一つ一つが開いていくのが感じられた。奥歯の震えを必死に抑えながら、ああこれだと懐か…

二本目のわらは相手をしてくれた。どうしたらいいかな? という言葉に黒田聡(くろだ さとし)は一瞬の虚を突かれた表情の後に苦笑をもらした。そうだなあ、確かにあの子が振ったネタだからあの子がケリをつけないといけないんだけど――なに? 鈴木さん余裕な…

おつかれ、と渡されたタオルを受け取ったものの黒田聡(くろだ さとし)は汗一つかいていない。同じく第一期の戦士だったものの、いまだ第二層でくすぶっている相手ではもう大きな差が開いていた。ついでジュースを受け取りながら、高田まり子(たかだ まり…

ゆっくりと上げた脚、かかとが天に向いた。片足は大地に、片足は天にと伸ばされた黒田聡(くろだ さとし)の身体はまるで一本の棒のようにも見える。精鋭四部隊の中では『地下限定で』最強の戦士と呼ばれていた黒田だったが実際の身体能力は垂直に上げた脚が…